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土豪 13

 太陽が揺らめきながら西方山脈の黒々とした稜線へと沈み込もうとしていた。

きいきいした甲高い声を上げながら、街道沿いの草叢からウッドインプが顔を出して仲間たちへと告げる。

「見つけたぜ、兄弟。新しい足跡が残っている。お誂え向きに二人組だ」

丸い瞳に溶鉱炉の炎のように好戦的な光を滾らせて、ドウォーフが歯を剥いた。

「二人か。丁度いいな。間違いないか?」

「間違いない。おいらの目は確かだぜ」

自信満々のウッドインプの態度に、重々しくドウォーフも頷いた。

「よし、待ち伏せするぜ」

 既に黄昏時。時間の余裕はさしてない。

濃紺色の天蓋には、星が瞬き、周囲も薄暗くなってきている。

あと半刻も経てば、大地は完全に暗い夜の帳に覆われるだろう。

 街道上には、まるで人気がなかった。

家路を急ぐ近隣の農夫や山羊を連れた牧夫の姿も見かけられず、大地に長い影を伸ばした彼らの他には人影もない。

街道上の宿場町やローナ、ティレーと云った城市にも、オーク族の頻繁な出没の噂は既に出回っており、旅人達も避けているのだろう。埃っぽい風が荒涼とした大地を吹きぬけた。

ウッドインプが噎せるように咳き込んでから、唾を吐き捨てる。


 ドウォーフとウッドインプが岩陰に隠れて暫らくすると、街道の向こう側から荒々しい叫びと共に近づいてくるオーク族の姿が目に入った。

悲鳴を上げて逃げ惑う人族の若い女を、三匹のオーク達が喚き声を上げながら追い掛け回していた。

みすぼらしい皮の腰巻や襤褸の布切れを身に纏い、手にしているのは粗末な棍棒や錆びた短剣。

一見して下っ端と分かる連中に落胆しつつ、赤髭のドウォーフがぼやくような調子で文句をいった。

「何が確かな目だ。三人いるじゃねえか」

「手に負えない数じゃないだろ」

 軽く受け流しながらも、ウッドインプは革の鞄から細長い鉄製の針を取り出した。

ドウォーフも、また場数を踏んだ冒険者である。予定外の出来事にも動じたりはせずに、ぼやきながらも大胆に行動を開始する。ウッドインプの手にした針の後ろには、木製の奇妙な重しがついている。

指先で摘まむと、鞄から取り出した壷の中身、服と同じ暗緑色の粘りのある液体を針につける。

漂ってくる薬品の刺激臭に、赤髭のドウォーフが顔を顰めて大きな鼻を摘まむ。

ウッドエルフは、筒状の棒の先端に長い針のようなものを詰める。

「さあ、やるぜ。そろそろ、なんかの成果を見せないとお役御免だからな」

「ぐふっ。やってやろうじゃねえか」

獰猛な笑みを浮かべて赤髭のドウォーフが、手斧の背をごつい掌で撫で回した。


 悲鳴を上げて逃げ惑う獲物に追いつきそうになると、しかし、女が力を振り絞って距離を引き離していた。そんな繰り替えしに、オーク達は焦れてきているのか。

追い詰められた娘が街道沿いの岩陰でついに立ち止まった時には、欲望を抑え切れないよう口元から涎を垂らして、女へと飛び掛った。

瞬間、女がフードを跳ね上げた。

手にしっかりと握られた剣の刃が跳ね上がって、真っ先に飛び掛ったオークの顔をしたたかに切り裂いた。

 同時に岩陰からドウォーフが、手斧を構えて猛然と飛び出した。獲物を追いつめて注意力散漫になっていたオーク達は、心の間隙を縫うような後背からの完全な奇襲を受けた。

足音に気づいて振り向いたオークの顔面に、ドウォーフの振り下ろした手斧が突き刺さった。

ウッドインプは岩陰に残っている。

筒を咥えたまま頬を膨らませて、慎重に狙いを定めて一息に吹いた。

 目前の娘の思わぬ抵抗とドウォーフに襲われた仲間の断末魔で思考停止に陥り、顔を驚愕に染めて棒立ちになっていた真ん中のオークの右目にウッドインプの吹き矢が突き刺さった。

叫びを上げて目を押さえながら仰け反ったオークに、最後尾のオークをドウォーフが斧を捨てて踊りかかる。

木槌のように堅くて頑丈な拳に思い切り叩きのめされ、ふらついているオークの剥き出しの二の腕に、再びウッドインプの吹き矢が突き刺さった。


 追われていた女が猛然と反撃を開始していた。フードを跳ね上げ、両の手に握った二本の剣が鮮やかな軌跡を描きながら、対峙しているオークへと襲い掛かった。

背中で編みこんだ女の金髪を舞わせながら、蛇のように敏捷な動きで素早い斬撃を送り込んでくる女は間違いなく手練の剣士であり、間違いなく待ち伏せの一巻であった。

哀れな獲物を追う狩人から、いまや罠に掛かった獲物へとオーク達の立場は転落していた。

それと悟った先頭のオークも、腕を切り裂かれた怒りと恐怖に雄叫びを上げながら、棍棒を振り回し、死に物狂いで反撃していた。


「……き、気分が悪い」

ウッドインプの放った五本目の吹き矢が太股に突き刺さると、ドウォーフと殴り合っていた真ん中のオークは、血の気の引いた表情で蹲りながら苦しげに喘いだ。

仲間が倒れるのを見て、最後に残ったオークは明らかに怯み、闘志が萎えていた。

「うぉおおおお!」

雄叫びを上げながらドウォーフが敵手を殴り倒した頃には、郷士の娘リヴィエラが最後のオークの腹部に中剣の刃を食い込ませて、切り倒していた。


 弱々しく命乞いの呟きを洩らしているオークに手早く止めを刺すと、郷士の娘は額の汗を拭ってドウォーフたちの首尾を確認する。一匹だけ生き残ったオークは、意識を失ったまま、地べたに倒れ伏していた。涎を垂らして鼾を掻いている捕虜を縄で厳重に縛り上げる途中、オークをぶち殺せて上機嫌のドウォーフが笑い声を上げた。

「幸先いいぜ。何時もこんな風に仕事が上手くいくといいんだがな」

げらげらと笑いながら、ウッドインプが郷士の娘を賞賛して手を振った。

「お嬢が囮をやるって言い出したときはどうなるかと思ったぜ」

「間抜けなオークだぜ」

ドウォーフが嘲りの言葉を掛けると、ウッドインプもオークの尻を蹴飛ばした。

「お嬢は美人だからな。鼻の下を伸ばしてやがった」

「オークの雌に比べたら、女トロルだって絶世の美女だな」

「違いねえ」

郷士の娘の言葉に、三人は腹を抱えて笑った。

オークの新手が来ないか、周囲を見回しつつ、ぐったりしたオークを驢馬に乗せる。

「さあ、お嬢。お待ちかねの花婿ですぜ」

準備万端整った時にウッドインプがおどけて一礼すると、まだ一行はわっと笑い声を上げた。



 郷士の娘と二人組の冒険者は、捕虜を引き連れて、日没前には旅籠に帰りついた。依頼主である郷士の娘は、旅籠の親父に頼んで裏庭の奥にある使ってない小屋を借りる。

 柱に縛り付けられたオークは、その頃には薬の効果も切れて覚醒しており、脅えた表情を浮かべ、小さな目できょろきょろと納屋の中を見回していた。目の前には血塗れの屈強なドウォーフが獰猛な笑顔を浮かべ、壁際にウッドインプが拷問にも使えそうな凶悪な針などを布で磨きながら鼻歌を歌っている。横合いで揺れている焚き火には、何に使う心算なのか。先端が真っ赤に焼けた鉄の串が、何本も突っ込まれている。

 目の前で椅子に座りながら鼻歌交じりに短剣を研いでいたのは、長い金髪を編みこんで背中にたらしている人族の娘で、オークが正気づいたのに気づくと場違いな笑顔を向ける。

「ああ、お目覚めかね。良かった。薬が効きすぎたのかと思った」

「此処は?何処だ?おいらは……なんで」

目覚めたばかりのオークの呟きは切れ切れで、まだ意識は朦朧としている様子だった。

「良い気持ちで寝ていたようだから、邪魔しては悪いと思ってね」

「なに……何を言ってる?」

「覚えてないかい?君は掴まったんだよ。我々の捕虜としてね」

小柄なオークの髪を掴んで、金髪の娘が顔を近づけてきた時、笑顔を浮かべている娘の鳶色の瞳がまるで笑っていない事に気づいた。

「さて、知ってる事を洗い浚い吐いてもらおうか?なに、時間はたっぷりとある」

炎に照らされた娘の横顔に陰影が揺れて、その口元を残酷な笑みが彩った。



 表口と調理場に面した旅籠の食堂は、貧しい客層の為の雑魚寝用の大部屋も兼ねていた。

冬の到来と共に寒さも厳しくなる此の時節。街道筋の旅籠では、夜通しで暖炉に炎が焚かれることも珍しくはない。

 竜の誉れ亭でも、赤々と炎の揺れる暖炉の周囲には、少しでも暖を取ろうとして貧しい旅人や放浪者、乞食、巡礼などがひしめき合っていた。

台所で忙しく立ち働いているエルフ娘の元にも、咳き込む音や衣擦れ、呻き声が、その尖った耳に嫌でも入ってきて彼女はふと不安を抱いた。技能も知識もない自由労働者の旅は、辛く厳しいものだった。

半エルフは同族の中でも頭抜けた美貌の持ち主であるから、或いは身体を売れば安楽な生活を送れたかもしれない。目を付けた富裕な農場主や町の女衒に誘われた事が幾度もあったが、その度に断ってきた。生きる為に身体を売る生活が悪いとは思わない。だけど、エルフの娘には何となく嫌だったのだ。

 女剣士と出会うまでは、エルフの娘ももっとも貧しい放浪者のうちの一人だった。

今は貴人の道連れとして少なくない恩恵を受けているものの、いずれは再び社会の最下層に戻るのだろう。別れの日も、それほど遠くないに違いない。

貧困は辛いが、かつては耐えられた。

ささやかな誇りと共に、生活に満足していたからだ。


 しかし、今のエルフの娘は、随分と安楽な生活の味を知ってしまった。

けして贅沢ではないが、安楽で快適な生活。それがずっと続くとしたら。手を止めて、一瞬だけ考える。

女剣士は、再び訪れたエルフの娘を拒否はしなかった。拒否はしなかったが、微妙に距離が開いたのを感じ取ってもいた。

 生きている世界が違う、か。

恐怖に脅えて、顔を見上げていた難民の女子供の姿は今も目に焼きついている。

あの人たちを殺せば、よかったのか。

それで愛も得られ、安楽な生活を得られたとしても……私は……

割り切れたら、楽だろう。でも、出来ない。エルフの娘には割り切れない。

何を考えている。わたしは

スープを温めながら、首を振って埒もない考えを切り捨てる。


「……ティリアは元気かな」

手元を忙しく動かしながら、翠髪のエルフは小さく呟いた。

同郷の半エルフの名前である。

男の子のように元気で溌剌としていた娘で、かつては共に旅をしていた。

 二、三年ほど前になるか。

ふとした切っ掛けで南方人の貴族と知り合ったエルフの娘たちは、安楽な生活と報酬を提示されて彼が経営する高級娼館に誘われた。

美貌は財産の一つ。有効に利用すればいいだけだと、口説かれてエルフの娘は断ったけれども、一緒に旅をしていた友達は誘いに乗ってしまった。

別れ際、放浪に飽いたのだと、疲れたように呟いていたのを覚えている。

あの伊達男なら、きっと契約を守るだろう。身を守り、報酬も与えてくれるに違いない。

 だからこそ恐かった。自分の意志で身を売りそうになるのがエルフの娘には何よりも恐ろしかったし、耐えられなかった。あの時は断った。断れた。だけど、今の私が誘惑を退けられるだろうか。

エルフの娘は、一瞬だけ目を閉じて考えた。

魂も疲労するのだろうか。アリアと別れた後に再び、苦しい放浪生活に戻れるだろうか。

わたしは、あの頃より弱くなっている。かつて程、心の強さに対して確信を持てないでいる自分を感じ取って、玉葱を切り刻んでいた手を止めるとエルフの娘は深々と溜息を洩らした。


 玉葱と豚肉のハムをよく切り刻んで、これまた細かく刻んだニンニクを入れたオリーブオイルで軽く炒める。それが終わると、木の椀に入れた卵を兎に角、粟立つまで良くかき混ぜた。

バターを溶かし込んだ鉄板に卵を流し込むと、円を描くようにパテで生地の形を整え、軽く焦げ目がついたら裏返して、玉葱と燻製肉を真ん中に投入。

包み込むようにしてオムレツの出来上がり。

後は、昼のスープの残りと湯気に当てて柔らかくした黒パン。

ベリーを磨り潰しただけの即席のジャムと、暖めたエールが二人の娘の夕飯となる。


 既に日は沈み掛けて、冬の空は夕闇に閉ざされていた。料理を盆に乗せて調理場から個室へ戻ると、エルフの娘は冷たい外気を締め出すように鎧戸に閂を掛けた。

 窓を閉める際、空気が微かに湿気を帯びているのを嗅ぎ取って、明日は雨になるかもと小さく呟く。

卓に並べられたオムレツは、色と形まで美味しそうに仕上がっていたので、見掛けた泊り客が親父に同じものを注文しようとした位だ。

「今まで私が食べてきたオムレツは、オムレツでは無かったのだな」

玉葱と豚肉のハムで作ったオムレツは、此れまで食べたオムレツのうちでも紛れもなく最高の味で、湯気の立つ卵料理を口に運んだ女剣士は絶妙な味わいに思わず硬直し、暫らくしてからしみじみと呟いた。よく分からないが、手放しの賞賛なのだろう。

半エルフは照れながらも嬉しそうに微笑んでいる。


 原生の自然がなお色濃く息づいている辺境世界では、一部の城市や町を除けば薪はただでも手に入る。街道筋の旅籠で個室に泊まるだけの懐に余裕のある客ならば、絶える事ない炎の恩恵を受けることが出来た。

健啖家の女剣士は、優雅に食べながらも食事が早かった。

暖炉に揺れる炎を照り受けて艶々輝くオムレツのうち、早くも二つが胃の腑に消えて、今は三つ目に取り掛かっていた。

「よく噛んでゆっくり食べてね。その方が味わえるし、身体にもいいから」

他者が幸せそうに食事する姿を見るのも好きなので、蒼の瞳を細めて楽しそうに女剣士を眺めているエルフだが、自身の食はさほど進んでいない。


 女剣士の健啖振りを眺めながら、エルフ娘は人族の娘の内心に想いを馳せてみる。

己が女剣士を想うほどには、相手にとって己が重要ではないのは理解している。

恋慕の情に多寡が存在するのは当たり前の話で、うじうじ思い悩んだり、傷ついたりするよりは、相手の気持ちを己に振り向けようと努力する方が建設的であるし、エルフ娘の好みに合っていた。

遠ざけようとした理由だが、恐らくはアリアの素性に関る要因なのだろう。

農園に行くように云ったのは、わたしを思っての事でもある。と、いいな。

好きだと云ってくれたし、嫌われてはない筈だが、しかし、私は事情をよく知らない。

さて……問題は好きの程度だけれど、どうなのだろうか?

人情の機微にけして疎い訳ではないとは言え、所詮は、翠髪のエルフも人生経験の浅いうら若い娘である。

大方は正確に洞察しつつも、いま少し女剣士の気持ちを確信しきれないでいた。


恋人にはなれない、か。

少しだけつまらない想いを抱きながらも、だが、己の料理を食べている女剣士を見ているだけでエルフ娘は胸のうちが暖かくなってくるのを感じていた。

いいや。こうして一緒にいられるだけで今は充分に幸せだ。それ以上は望むまい。




 辺境行路からやや外れた南に位置するその村パリトーは、豪族クーディウス氏の治める本貫地として知られていた。

村内には四つの井戸が存在している。豊かな水源を有している為、一年を通して渇水する事のない村の人口はおよそ三百人。小高い丘を中心にしてなだらかな裾野まで家屋の広がったパリトーは、およそ七十戸の民家を内包した近隣では随一の規模の大集落であった。

 村内には、畑や農家、納屋の他にも豚や山羊を飼う家畜小屋、道行く旅人の為の酒場兼宿屋に加え、皮革職人の工房や鍛冶屋の窯までいた。

 周囲を鬱蒼とした森林に囲まれた村である。内と外の境界線には低い石壁と柵が張り巡らされて、外敵への警戒は村の男衆によって怠りなく行われている。

村の中心に位置している丘陵の頂にクーディウス氏の館が在った。

辺境の大地に夜の帳が舞い降り、青白い月と瞬く星々だけがささやかな優しい光を冬の大地に振らせている中、木造の館の一室からは窓の光が漏れていた。


 館の片隅に与えられた薄暗い部屋で、豪族の息子パリスは楽しまぬ思いで暖炉に揺れる炎を眺めていた。与えられた部屋は正妻の子である姉と弟に比べればさすがに狭い間取りで在ったが、其れでも充分に生活できるだけのものを父親から与えられていた。

公平にいえば、父親は亡き母とその忘れ形見である息子である自分に充分以上の愛情を注いでくれていた。

 だから、彼に不満などない。冬とは云え、部屋に備え付けに暖炉があり、一人で暖を取る事を楽しめるほどに扱いはいいのだ。

 妾腹の子の扱いは、郷士豪族によって様々である。正妻の子と同等に扱われる者もいれば、使用人や家臣として扱われる者もいる。酷い物になれば、奴隷として扱われている者さえいるのだ。

 それと比べてみれば、彼の環境は下にも置かない扱いといってよい。

なにしろ、成人の際には若い頃の父が使っていた剣まで授けてくれた。

南王国セスティナ東国ネメティスが激しく争った海道戦役の際、父が仕えた南王国の貴族から直々に頂いたものらしい。

この剣を持つに、恥じない男となれ。

苦しい時、辛い時、その言葉を思い出すたびに青年の心には力が湧き上がってきた。

父の言葉を胸に青年は今日まで生きてきた。


 だが今は、唇を引き結んで固く強張った表情で、暖炉の炎を眺めながら青年は手元のエールを煽っている。

額には苦悩の皺が深く刻まれて、答えの出ない問題が脳裏に居座り続けていた。


 部屋の入口。背後から衣擦れの音と人の気配がした。

「眠れないの?弟くん」

からかうような響きに苦笑しつつ、労わりを孕んだ優しい声音に、だが、今は振り向く気になれず無言で肯いた。肩に毛糸織りのケープを掛けた姉が、よいしょ、と年寄り臭く呟きながら、青年の隣に座り込んできた。

 姉が部屋を訪れてきたのは、何年ぶりだろうか。子供の頃はよく互いの部屋を訪れては一緒に過ごしていた。お気に入りの淡い青の女服を纏っており、鈍く輝く銀製の腕輪を嵌めている。

着物はリネン(亜麻)の布地を貝の染料で染めた女物で、娘を溺愛する父親が態々、南方の都市国家から買い付けた高価な品だった。


 姉は何を話すでもなく、一緒に炎を見つめている。

暫し時間が経ってから、ため息をついて灰色の横髪をかきあげつつ呟いた。

「昼間の事でしょう」

悩んでいる弟を睨みつつ、やや咎めるような口調で言った。

「迂闊だったよ」

問題は、事の理非に対する見方だけではない。東国人は兎角、血の気が多いというのが、辺境や南王国における人々の共通した認識である。あの東国人貴族は勇猛かつ手練の剣士であり、刺激するような事を云うべきではなかった。

 相手が相応に見識を持った人物であったようだから、揉め事にはならなかったものの、まかり間違ってあそこで斬り合いになっていれば、手勢の半数は死んでいただろうなと豪族の娘は思っていた。

そして、その死者の中に己や弟も含まれていないとは限らないのだ。

「反省している」

弟が呟くと、その手からエールの杯を取り上げて姉は一息に煽った。

「フィオナ、姉さん……俺は甘いか」

「甘い」

一言で切って捨てられて、青年は唇を噛んだ。

「けど、まぁ、その甘さが嫌いではないけどね」

寄りかかって息の触れそうな距離に顔を近づけると、笑いを含んだ声で囁いた。

「多分、正解は一つではないと思うよ。弟くん」

其れだけ云うと、生欠伸を噛み殺しつつ豪族の娘は立ち上がった。

「もう寝なさい。明日には豪族たちの会合が始まる。君も挨拶をしなければならないんだからね」



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