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土豪 01

 街道沿いの旅籠『竜の誉れ』亭の一室。バウム親父曰く、街道筋では一番の部屋だそうだ。

壁の割れ目やひびの上に漆喰が塗りたくられ、何度か補修を繰り返したのが見て取れるが、

滲み出てくる黄ばみや煤を完全には隠しきれていなかった。

だが、控えめに言っても、確かに悪い部屋ではなかった。

掃除はされているようで、床には余計な塵なども落ちておらず、鎧戸は頑丈で継ぎ目も目立たない。

締め切れば、夜気の侵入を殆ど完全に防ぐことが出来た。


 暖炉では、盛んに炎が焚かれている。

薪も只ではないが、身体が冷え切っていた。金を惜しんでいる場合でもない。

明かりに照らされて、寝台にしどけなく横たわるアリアの裸体が闇に白く浮かび上がっていた。

均整の取れた美しい肢体が瞼に焼き付くと、エリスは胸のうちに微かに欲情を覚えて喉を鳴らした。

身を乗り出すようにして黒髪の娘のしなやかな身体の上に屈み込むと、身体に刻まれた傷に指を這わせていく。


 蛆虫が欲しかった。

傷跡に這わせておけば、腐った肉を食べてくれるし、その唾液には細胞組織の再生を促進する働きがあって、

治療に用いるには随分と役に立つ虫なのだ。

だが、初冬の季節に何処を探しても見つかる筈もない。

結局は口をよく濯いでから、唇で血と膿を吸い出すことにした。


 単独で両手両足の指を合わせたほどの数のオークを屠ったアリアであるが、その返礼として全身に数箇所の裂傷や打撲を負っていた。


 太股の付け根の直ぐ真下にある裂傷など、あと少し外れていれば大腿動脈を切り裂かれていただろう。

オークたちが刃に毒を塗っていなかったのが、不幸中の幸いか。

桃色に盛り上がっている傷口に赤い舌を這わせると、肌は微かに汗臭く、甘酸っぱい匂いが鼻腔をついた。


 若い同性の仄かに甘い体臭は、エルフの娘にとって嫌いな匂いではない。

「んっ……ふぅっ」

何かを堪えるように擦れた声が、エリスの尖った耳朶には蠱惑的に聞こえてならない。

何時からだろうか。

多分、息を吹き返した時から、半エルフには黒髪の人族の娘の所作の一つ一つが妙に気になり始めていた。

しかし、今は治療の方が先だ。妄念を抑えて傷の手当に専念する。

吐息を荒げながら躰をもぞもぞと動かしているアリアの下半身を押さえると、エリスは傷口に唇を当てて、膿を吸い出しては床に吐き捨てていく。

傷口をお湯で洗浄して湯煎した針と糸で縫ってから、彼方此方と野山を回って蓄えてきた薬草と苔を混ぜた膏薬を塗り、湿布と包帯に布を巻きつけた。



 丘陵地帯を横断し、街道を何時間もぶっ通しで歩いて、アリアとエリスがようやく見慣れた旅籠に辿り着いたのは、その日のほぼ真夜中であった。

 うらぶれた旅籠の壁には、血の跡と焼け焦げた放火の痕跡が刻みつけられているのが、

扉の前に燃え盛る篝火によって闇夜にも鮮明に浮かび上がっていた。

斧を手にした傭兵が、所々、血に汚れた上着で、力なく入り口近くの切り株に腰掛けていた。

確か二人組の片割れであった筈だが、相棒の姿は見当たらない。

 如何やら襲撃を受けたようで、道端にオークと人族の死骸が片付けられないままに転がっていた。

オークの切り裂かれた腹部からは臓物と糞が地面に零れ落ちて、冬の夜にも明白な悪臭が漂っていた。

「……北からオークが」

扉にいた傭兵はそれだけを茫然と呟いてから顔を上げ、二人の娘の顔を思い出すように目を瞬いた。

「無事だったか」

 扉を開けて旅籠にはいると鉄の鍋を兜代わりに被った宿屋の主人が恰幅のよい、肥満した肉体を揺るがしながら、歩み寄ってきた。

手には棍棒。よく見れば、先日の盗賊の首魁が愛用していた武器に良く似ている。

「おおう、これはお嬢さま方。良くご無事で!」

 飛び出してきて喚いたバウム親父は、血と泥に塗れた二人の旅人の姿を見るや、直ぐに燃え盛る暖炉の所へと案内してくれた。

 アリアなどは内心、弱った所に付け込まれる懸念を覚えてないでもなかったが、人の情けは案外と捨てたものではなかったらしく、直ぐに暖かい雑穀の粥が振舞われ、幾ばくかの硬貨を払うことで、暖めたエールを啜る事も出来た。

 親父や客たちの説明によれば、やはり旅籠。というか、一帯の民家や農園がオーク族に襲撃を受けたらしい。

 宿屋に居た客の何人かは死に、或いは女は浚われ、川辺の村でも相当な被害が出たらしく、艀が壊れたとか、生き残った村人たちや近郊の農民が殻竿や棍棒、六尺棒など粗末な武具を手に手に旅籠に集ってきては、噂を囁きあっていた。

「……ですが、あの小僧の母親まで浚われてねえ。いえ、うちの娘は無事で……」

 その後は、自分がいかに慈悲深い親方で、損を覚悟で小僧を面倒見てやってるかと、娘を守る為にオークと勇敢に戦ったか。知り合いの農民が心配だと。

旅籠の親父は延々と、愚痴と自慢話と顔見知りを案じる世間話が入り混じった言葉の奔流を口から垂れ流し続けた。

 バウム親父の話の幾らかは参考になったので、エルフの娘は適当に聞き流し、相槌を打っていたが、やがて同じ内容の繰り返しになってきたので、会話を打ち切って部屋を用意してもらった。


 銅貨二枚は、街道筋の安宿の相場を大幅に上回る金額で、親父との交渉の結果すぐに一番上等な部屋を貸しきる事が出来た。

下働き、或いは奴隷だろうか。今まで見なかった痩せた娘に先導されて旅籠の奥にある個室に案内されると、部屋はそれなりに広かった。

 二つ並んだ寝台は、オグル鬼でも眠れそうな幅広く頑丈な作りである。

毛布も意外と清潔で、日に良く当てているのだろう。よい匂いがする。

アリアは、精も根も尽き果てている様子で寝台へと倒れこんだ。

一方、エリスは下働きの痩せた娘に小銭を渡して薪を持ってくるように頼むと、台所で鉄鍋を借りて大量の湯を用意しながら、針と糸を湯煎し、彼女の傷口を洗い、本格的な治療を始めた。


 化膿止めや止血の効果のある苔を塗り込みながら観察すると、傷口は幾らか化膿を見せているものの、周囲の肌は健康的な桃色が盛り上がっていた。

 きっと、元からの生命力も相当に強いのだ。後は薬が効いてくれればいい。

此れなら、大地の毒素が入り込まなければ大丈夫だろう。

翠髪のエルフがそう安堵のため息を漏らしていると、黒髪の娘が手を握ってきた。

「……もう駄目かと思った」

眉根を寄せて物憂げに呟くと、何やら物思いに耽っている様子で暖炉の炎に魅入っていた。

「もう休みなよ」

エリスの言葉に頷くと眼を閉じたアリアだったが、やがて暫くすると苦しげな様子で魘され始めた。

「くっ……ううむっ……」

 歴戦の戦士にしても無防備な状態で長時間、敵に追い回されるというのは心理的な負担が大きかったのか。

自分も寝ようとしていたエリスは少し意外そうに見つめていたが、やがて毛布を抱えて魘される女剣士と同じ寝台に潜り込んだ。

背中から身体を密着させると、抱きしめるように腹部に腕を廻して手を握り締める。

「大丈夫だ……大丈夫」

 低い囁きをエリスが繰り返すうちに、やがてアリアも安心したのか。

穏やかな寝息を取り戻した横顔に、今度はエルフの娘がじっと魅入っていた。

「……好きになってしまったかも知れない」

 口の中でもごもごと呟いたエリスではあるが、とはいえ、アリアは人族で東国の出でもある。

彼の地の習俗や女剣士の嗜好についてエルフの娘は何も知らなかった。

育った土地の常識によっては、女性に好かれたとて拒まれないとも限らないのだ。

静かに俯いて不安を押し殺しながら、暫しの間、女剣士の横顔をじっと見つめていたエルフの娘だが、やがて毛布を肩まで被さってからアリアに抱きついてエリスは静かに眼を閉じた。


 初冬の痩せた大地を踏みしめながら、天を見上げた騎鳥武者が目を細めた。

夕刻の高い空に鳶が弧を描いている。

点在する丘陵を背景として、武装した兵の一団が西を目指して草原を進んでいた。

一帯を東西を貫いている北の街道と呼ばれる行路に踏み込んでからは、大足鳥に騎乗した小柄な武者を中心に一行は円陣を組みつつ移動し始める。

明らかに何者かからの襲撃に備えての陣形であった。

 武装しているとはいえ、兵の過半は豪族がその領内より呼集した農民兵である。

身に纏うのは、革の上着や厚手の布服。

殻竿、六尺棒や粗末な槍、錆びの浮かんだ短剣など雑多な武具を手に、慣れぬ様子で陣形を乱しながら、時折、通り過ぎる他所の土地の農園や旅籠を物珍しそうに眺めたり、歩き続ける事に愚痴を洩らしていた。


 一行の中には二、三名の専門の戦士もいる。

鋲の付いた革鎧を着込み、或いは盾を背中に吊るした一握りの傭兵らしき男女も、それほどに緊張した様子は見せずに気楽な様子で雑談などをしていた。

恐らくは一行を率いる立場なのであろう、大足鳥と呼ばれる人が乗れる程の大型の鳥類に跨った若武者はというと、青銅製の胸当てが夕陽を反射して淡く煌めき、真鍮製の籠手、革製の脛宛を纏い、腰からは中剣を吊るしている。


 退化した羽根の代わりに異様に発達した二足で歩行する大足鳥は、灰色の羽毛も艶やかで、よく手入れされているのだろう、乗りやすいように鞍と革製の鐙も付けられていた。

目も彩な戦装束を纏いながら、若武者はしかし俯いた表情に憂鬱さを隠そうともせず、何やら深く思案に沈みこんでいた。


 周囲に夕闇が迫ってくる頃、一行は丘陵が迫っている狭隘な地形に差し掛かった。

先頭を行く数名の兵の手には松明が掲げられて、淡い光が宵闇の草原に幻想的に揺れていた。

敵の襲撃を恐れなければならないとしたら此処であろう。

丘陵の狭間を縫うようにして一行が進む中、いよいよ東西の街道は狭まっていく。

「オーク共は見当たらねえですな」

松明を掲げている雀斑の残る若い農民兵が云うと、別の農民兵が呑気な口調で相槌を打った。

「見あたらねえ方がいいさ。見回りも少しは役に立ってるってことだろうよ」

「街道筋じゃもう何軒も民家や農園が襲われたって話だったが……」

首を振りながら、中年の兵士が槍を担ぎ直しつつ呟くと、隣にいた傭兵が吐き捨てた。

「女が何人もかどわかされたって話だぜ。竜の誉れ亭まで襲われたと」

傭兵は顔を歪めながら、言葉を続けた。

「……気の毒によ。子供の目の前で母親が浚われたって話だ」

「糞ッ!オーク共が」

雀斑の農民兵が憤慨したように言葉を吐き捨てる。

「……よくある話さ」

醒めた口調の顔に傷のある傭兵に、前を行く老人がしわがれた声で語りかける。

「いや、此処何年かはこんな立て続けにオークに襲われるなんてのはてんで無かったことよ。

何かが起こる前触れかも知れねえ」

「不吉なことを言うなよ。とっつぁん」

低い声で不機嫌そうに返す傭兵だが、老人は執拗だった。

「いや、これはお館さまのお考えよ。

でかい侵攻が在るかも知れねえってお考えだ。わしに、そう打ち明けてくださった」

「……だからか。村を守るだけにしては、やけに兵の数も多いと思ったぜ」

「盗賊も増えてるしな。怪しげな奴を見かけたら、連行するのも俺らの仕事の一つさ」

槍を抱えた若い戦士が思いついたように呟いた。

「盗賊って言えば、あの手長がついに掴まったそうだぜ」

「手長ってあの手長か?」

後ろを歩いていた農民兵や傭兵達が話題に食いついた。

「おう、その手長さ。もう、首だけになってこの先の街道で晒されてるぜ」

「あはは。そいつはいい話だね。さすがの手長もついに年貢の納め時か」

くすんだ金髪をした女戦士が陽気な笑みを浮かべ、

「俺も聞いたで。なんでも凄腕の剣士に襲い掛かって、手下と一緒に返り討ちにあったってな」

凶賊の非道さと罪業について一頻り話してから、今度は手長を斃した人物について話題が移った。

「一人で四人だか、五人だかを切ったとよ」

「俺は七人だって聞いたがな。しかもやったのは女だとか」

「雌のオグル鬼とかじゃないだろうな?」

「話半分としても、世の中には凄いのがいるな」

馬上で沈み込んでいた鳥武者も、その話題には関心を示したようで耳を傾けていた。

「あの手長が死んだのか」

溜息を洩らしてから、首を振ってポツリと呟いた。

「そんな凄腕の剣士がいるなら、我らに力を貸してくれれば心強いんだが」

涼やかな声音は、だが暗く沈んでいた。

戦士の一人。中年の男が一行を率いる鳥騎兵を見上げて、慰めるように笑いかけた。

「いや。パリス様の剣の腕だって結構、捨てたものじゃないですぜ」


「そういや。大旦那がローナの町の鍛冶職人に武具を注文したって話だけど」

若い農兵が騎鳥の人物。パリスを窺うようにしながら、

「そうなりゃ、俺にも剣を貸してくれるかもしれねえっすね」

「ん、そうなるかも知れぬな」

頭目のパリスの何気ない相槌に、若い農民はパッと顔を明るくした。

「手柄を立てりゃあ、俺も士分に取り立てられてよ。へへ」

 剣への憧れを隠さずに興奮していたかと思うと、今度は何を考えたのかにやけ面を見せる若者に、周囲から呆れたまなざしが注がれた。

富裕な豪族が武具を発注しても、一度に十本も二十本も作れる訳でも無ければ、買える訳ではない。

そもそも鍛冶職人とその徒弟が町にもそう多くはいない辺境である上、金属製品自体が貴重な代物である。

だから、土地の豪族が武器を集めようと思うのなら、一度に剣を二本、三本。

盾を二つ、三つと、何年も掛けて少しずつ武具を備蓄していくのが普通であった。

古い、かつ鈍らな粗悪品ならともかく、出来立ての剣や槍などまず未熟な若者まで回る筈無い。

「小僧っこが、仮に噂が本当だとしても、お前にはその殻竿でお釣りが来るぜ」

「全くだ。生意気な奴が」

 音高く舌打ちした若い傭兵や雀斑の農民兵が、一斉に若者を嘲り笑った。

夢見がちな若者の愚かさを笑うのが半分、夜の旅程の不安を解消する面が半分であった。

笑い者にされた若者は、羞恥に耳朶を真っ赤に染めて悔しげな表情を見せながら黙り込んだ。


 それまで寡黙に松明を掲げて先頭を歩いていた男が、沈黙を破って主人のパリスに問いかけた。

「武器を蓄え、兵を雇い……旦那さまは、戦が近いとお考えなんですかい?」

後ろを歩いていたがっしりした中年の戦士が、軋むような声で応える。

「俺達が考えることじゃねえ。いずれにしても、なにか旦那には深いお考えあっての事だろうよ」

「……だがな」

騎鳥の人物が戸惑ったように声を上げた。

「父がなにを考えているかは、私にも分からん。或いは……」

 鳥騎兵がその先に何を言おうとしていたにしても、その言葉は鋭い警告の叫びに遮られた。

先頭を歩いていた松明の男が急に立ち止まって、なにやら指し示していた。

「あれを!」

 闇に包まれた街道の彼方であったが、若武者にははっきりとそれが浮かび上がって見えた。

丘陵の窪みから立ち上がった何者かが勾配を降りると街道上へと進み出てきた。

「敵かァッ!!」

「……なんだ、あいつは?!」

「慌てるなあ!全員、武器を構えろ。固まって陣形を崩すな!」

 武器を引き抜き、或いは身構えつつ、数名が逸って飛び出そうとするのを中年の戦士が怒鳴って抑える。

此方へとふらふら進んできた人影が、途中で力尽きたように地面へと倒れこんだ。

「だが、よろめいている。本当に敵なのか?」

「落ち着いてください、パリス殿。農民や丘の民かも。まだ分かりません!」

鳥騎兵の若者が疑念を呈し、中年の戦士が剣を抜きつつ、松明を掲げて進み出ようとした。

「わたしが見てきます。此処で待っててください!」

「いや、わたしも一緒に行こう」

パリスの双眸を数瞬見つめると、中年男は厳しい表情で頷いた。

「……分かりました。用心なさってください」


 弱々しい光源をかざしながら進んでいくと、地面へ倒れているのは若い娘であった。

「若い娘だな。大丈夫か?」

 罠ではあるまい。そう判断して戦士はしゃがみ込むと娘を助け起こした。

薄汚れた粗末な衣服を纏っているが、苦しげな呻きを上げた娘は中々に美しい容貌の持ち主であった。

意思の強そうな口元は固く結ばれ、整った目鼻立ちには凛々しさが湛えられている。

「……綺麗な娘だな。何者だろう」

「行き倒れでしょうか?」

娘の顔立ちを見てから、一瞬、ハッと息を呑んだパリスは手を伸ばしてそっと頬を撫でた。

「泥だらけだ。オークに襲われて逃げてきたのか?」

娘の穿いている革のサンダルは擦り切れる寸前の古い代物で、中年の戦士が口元を歪めた。

「酷いなりです。どこぞの農園から逃げ出した奴隷かもしれませんぜ?」

「……逃亡奴隷か」

パリスは一瞬、動きを止めた。若々しい端正な表情に眉を顰めると少し考え込む。


 社会一般に財産として認知されている奴隷であるが、その扱いは主人の人格や経済的事情、そして各々の奴隷の価値や技能によって千差万別であった。

 自作農の小農園にて幼い時から主人一家と家族同然に育てられ、同じ食卓で食事を取る奴隷もいれば、大きな農園で朝から晩まで馬車馬のように働かされ、武装した監督に鞭打たれたり、反抗的ならば酷い時には家畜のように焼印を押される者もいた。

 近隣に住む農民などが返しきれぬ借金を背負った果てに、民会の調停で債務を返すまで奴隷身分に転落させられる場合もあるし、戦争の結果や渡来の商船によって見知らぬ外国より連れてこられる異民族の奴隷もいる。

 上記の債務奴隷や同郷の奴隷などの場合は、奴隷とは言っても身分と権利がある程度は慣習法によって守られ、主人とて無闇に打つことも出来ないが、一方で文化や風習、言葉さえも異なる異民族や異種族の奴隷なれば、立場は極めて弱く、時に家畜より過酷な扱いを受ける例も多々あった。

いずれにせよ、ヴェルニア世界においては、最下級の奴隷は主人の財産に過ぎず、法の庇護も全く期待出来ない。

 そんな彼らが過酷な扱いを受け続けるよりは、自由を求めて一か八か、残忍な主の元より脱走するのは、ままある事例であった。

 一方、ヴェルニア世界の法秩序では奴隷が逃亡を図るのは重大な罪であり、逃亡奴隷は無法者の一種と見做されて、追っ手に殺されても文句の言えない立場であった。

 自由民が逃亡奴隷と遭遇したら、出来るならば最低でも持ち主に通報するのが良識であり、また捕らえたのならば引き渡すのが責務でもあった。

「ちょうど、女手が欲しかったところだ。連れて帰ろう」

だから、中年の戦士が雇い主であるパリスの結論に異を唱えたのは、面倒ごとを嫌っての事だろう。

「逃亡奴隷かもしれませんぜ?」

 それがさも重要な事であるかのように同じ言葉を二度繰り返した。

逃げたのが見つかれば殺されかねない奴隷が、それでも敢えて逃げ出すような主人だ。

残忍な性格であったとしても不思議ではない。

余計な軋轢は避けるべきだと訴える。


「……よしんば逃亡奴隷だとしても、此の侭に放置は出来まい。

 それに恐らく、彼女は自由民だ。赤毛だからな、モアレ辺りの北方人に違いない」

 近隣では、赤毛は幾らか珍しい毛色である。

兵達が物珍しそうに赤毛の娘をじろじろと様子を窺っている。

「乗せろ。二人は無理だから、私が歩こう」

「しかし……分かりました」

娘を肩に担いだ中年の戦士は、大足鳥のところまで戻ると娘を鞍へと乗せながらため息をついた。

「竜の誉れ亭で一杯やりたかったんですがね」

兵達が顔を見合わせ、ざわめいてる中、ぼやく傭兵に苦笑を浮かべた後、

「……北の方で何かあったかも知れんな」

丘陵の彼方に視線を送って、パリスは考え深そうに低く一人ごちた。


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