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追跡 08

 夜更けと夜明けの狭間の頃合に、エリスは薄く目を見開いた。

眼前の至近には、抱き合った姿勢のままに人族の娘が穏やかな寝息を立てていた。

 数瞬の間、翠髪のエルフは人族の娘の整った顔立ちを名残惜しそうに見つめていたが、やがてぬばたまの黒髪に軽く触れてから、素早く己を抱きしめている腕から脱出した。

立ち上がり、切れ長の蒼い瞳で扉の外へと視線を向けると、一見、外の大地は未だ夜のベールに覆われているように見えるが、森の子の鋭い五感は、黎明が近づいた大気の匂いの変化を敏感に嗅ぎ取っていた。

「う……ん」

寒そうに身じろいでいるアリアに毛皮をかけ直すと、エリスは大きく息を吸い込んだ。

冷え込んだ空気に含まれた僅かな湿気と気流の変化が、森の娘に夜明けの近いことを教えてくれるのだ。


 土間の真ん中では焚き火が弱々しく揺れており、廃屋の片隅には赤毛の村娘ジナが躰を丸めて寝転んでいた。

独眼の青年の姿は見当たらない。

昨晩は二人分の足音を聞き取っていたから、恐らく近隣にある廃屋のいずれかに身を潜めているのだろう。


 衰えていた焚き火の火勢に集めておいた枯れ枝を薪として注ぎ足すと、エルフの娘は大股に歩いて扉の外へと踏み出した。

 天頂と地平の中ほどにある半月が淡い幽かな月光を大地へと投げかけていた。

エルフの娘は、月の光を頼りに丘陵の勾配を歩き出した。

 昨日の夕方に木々に縛り付けた水筒を見つけると、僅かに水分を増やしたそれを手に持って回収していく。

 遠い獣の咆哮が闇の彼方から響いてきた。狼の遠吠えだろうか。

エリスは聞こえた方向にハッと振り返り、緊張した面持ちで腰に吊るした短剣に手を伸ばしたが、遠吠えが二度聞こえてくる事は無かった。

溜息を洩らしたエリスが踵を返して足早に廃屋へと戻っていく頃、東の空では僅かな黄金色の煌めきが地平線から天空を彩る紫のベールを侵食しつつあった。



 寒さに耐えかねたアリアが目を覚ました頃、陽光に照らされた地面から霧が発していた。

「……これは」

地形的に霧が発生し易い土地であるのか。

起き上がった黒髪の女剣士は、一瞬、何が起こったのか分からずに当惑した様子で呟いた。

無言のまま、足早に戸口から外に出て辺りを見回したが、一面、乳白色の霞に包まれている。

朝靄と称するにしては余りに濃密な乳白色のベールが視界を遮り、向こう側の景色はおぼろげに霞んで見えなかった。

 霧の向こう側に由来で浮かび上がる巨大な丘陵の影は、まるで伝説の氷の国の城門に聳え立つ巨人族にも思える。

 頤に指を当てて難しい顔をしているアリアに、エリスが近づいてくると水筒を差し出した。

「霧が出てきたね」

落ち着いた口調のエルフ娘を横目で見つめると、気を取り直したのか微笑を浮かべる。

「さて……吉と出るか、凶と出るか」

言いながら、水筒を受け取って口をつけた。

追っ手は追いにくいだろうが、逃げる際に道を踏み外したり、見失う恐れもあるのだ。

寝ている間、傷が発熱した身体は水分を欲していたのだろう。

喉を滑り落ちる一口の水が、格別に美味かった。

「きっと僥倖に違いないよ。何時まで続くか分からないけど」

 エリスが楽観的な見通しを述べる傍らで、アリアは靄を孕んだ早朝の澄んだ空気を吸い込んだ。

傷ついた身体は色々と痛むが、手傷を負ったのは今回が初めてという訳でもない。

痛みを押して動き続ける事が出来る程度には、苦痛には慣れている。

「僥倖か。うん、そうあって欲しいものだな」

胸のうちには幾らかの不安を覚えていたが、同時に好機であるとも感じていた。


 うつらうつらとしていた村娘の尻が軽く蹴られた。

「一緒に来る心算ならば、そろそろ起きろ」

乱暴な起こし方に不満の呻き声を上げながら目を見開いた時には、二人の旅人は食事の用意を済ませていた。

 エルフ娘が鉄櫛に固焼きのパンを刺して、火で軽く炙っている。

「堅いな、これ。余計に堅くなったのではないか?」

「寒いから暖かい方が美味しい」

固焼きパンを受け取った女剣士は、赤毛の村娘を無視して不味そうに齧っている。

眠そうに欠伸を噛み殺しつつ、赤毛のジナは半身を起こした。

昨夜は、オークに追われた恐怖と衝撃による不安で殆ど眠れなかったのだ。

霧の中に人影を認めたエリスは、戸口の外に視線を送って不快げに眉を顰めたが、村娘に近寄ると湯気を立てているパンを差し出した。

「あ、ありがとう」

 エリスは、余ったもう一つのパンを抱えて戸口から出ると、其処には独眼になった青年が所在無げに立ち尽くしていた。

脅えた表情を浮かべて、また気まずそうに俯き加減になっている。

 嫌悪感を隠そうともせずに冷たい表情で青年を眺めると、エリスはそっけない言葉でぶっきら棒にそれでも食べ物を差し出した。

「ほら」

 大きく眼を瞠った青年がおずおずとパンを受け取ると、エリスは直ぐに踵を返した。

青年が啜り泣き始めるのを聞いて、扉の外に立っているアリアはうんざりした様子で侮蔑の眼差しで一瞥した。

エルフの娘が隣に戻ってくると、女剣士は眉を潜めて話しかける。

「奇特な人だな……君も」

エリスは無言のまま陰気に黙り込んでいるので、それ以上は何も言わずに肩を竦めた。

「食べたら、もう行くぞ。オーク共に追ってこれるかどうか分からんが、霧の出ている間に出来るだけ距離を稼いでおきたい」

 最後のパンの欠片を口に放り込んで水筒の水で流し込むと、枯れた茶色の草を踏みしめながら大股に歩き出した。



 三人の人族と一人のエルフが去ってから程なく、足跡を追って廃屋を突き止めてきた黒オークと一党が踏み込んできた。

 ほっそりした黒い人影が土間にしゃがみ込み、消えた焚き火の灰に指で触れている。

「灰がまだ暖かい」

冬の冷たい大気の中に在って、灰はまだ仄かに熱を保っていた。

立ち去った者たちはまだそれほど遠くにいってない。

「どれ程前だと思う?」

黒オークのガーズ・ローが擦れた声で問いかける。

「……半刻(一時間)か、それくらいだろうね。

 火が消えて、さほどの時間は経ってはいない」

「夜が明けて直ぐに発ったか。此の霧では追いつくのは難しいか」

忌々しげに舌打ちするガーズ・ローを見上げながら黒エルフの娘が口角を吊り上げる。

「そうでもない。外の足跡は四人分だけど、うち二人は浅からぬ手傷を負っている。

 それほど速くは進めないはずだ」

廃屋を後にしながら、自信有りげに言った黒エルフを黒オークのガーズ・ローは横目で眺めた。

「分かるのか?」

「足取りを見れば。よろめいたり、歩幅が乱れている」

 黒エルフが告げた時、朝靄から複数の人影の輪郭が浮かび上がった。

武装したオークよりなる一隊が、手持ち無沙汰に地べたにしゃがみ込んでいたが、近づいてきた黒オークの姿をみとめると不満げにぶつぶつ呟きながらも立ち上がっていく。

「忌々しい霧だな。今、追ってるのが丘の民ってオチはないだろうな?」

「連中は南へと向かっている。人族の豪族どもの勢力圏に逃げ込む気だね」

黒エルフの娘を一瞥すると、黒オークは霧の向こう側に揺れる彼方の黒々とした稜線を鋭い視線で射抜いた。

「ならば、よし。村人に違いあるまい」



 出発して少しすると、アリアの顔色から血の気が引き始めた。

弱音一つ吐かないものの、負傷を押しての移動はやはり相当な苦痛なのだろう。

体力の消耗も激しいようで、汗を流しては息を切らしており、時折よろけた所などをエリスが肩を貸して歩を進めていた。

 付かず離れずの距離で後ろをついてくる独眼の青年のほうも遠近感がないようで、偶に足を滑らしては赤毛のジナが甲斐甲斐しく助けに戻っていた。

道程の消化も、思ったよりも難航した。

 天蓋に浮かぶ円盤の放つ光と熱も、薄暗い影の横たわる丘陵の狭間においては分厚い霧のベールを通して薄ぼんやりとしか感じ取れず、弱々しい陽光に方角すらも定かではない。

大地の裂け目や聳え立つ土石の壁など、所々に進めない箇所があり、一行は幾度か遠回りや今やって来た道の後戻りを強いられた。

かといって丘陵まで昇れば、太陽の位置から方角は割り出せたものの、余計な時間と体力の消耗を避けられなかった。

 どの程度の道行きをこなしたかも分からずに一行はただ進み続けたが、霧のようやく引き始めた昼時。

小高い丘陵の頂きで休憩を取った頃には、皆が相当に体力を消耗していた。

 風に流れいく朝靄と頂きを覗かせている丘陵は、まるで乳白色の海に浮かぶ黒い島のように美しく見えた。

雑穀のビスケットと水での簡素な食事を取り終わった後、アリアは雑木に寄りかかってぐったりとして休んでいる。隣ではエリスが険しい顔となって北の方角を眺めていた。

何が気になるのか。

それまでも幾度となく後方を振り返っていたが、やがて木に登り始めると枝に縋りついたまま、歩いてきた方角に忙しく視線を配っていた。

 やがて何かを見つけたのだろう。

ハッとした顔つきで乗り出すようにして彼方に眼を凝らしていたが、やがて舌打ち一つすると木からするすると下りてきた。

「追っ手。数は二十人以上いる」

アリアが黄玉色の瞳をすっと細めた。

エリスの緊迫した顔つきからして洒落や冗談では無さそうだ。

「だが、どうやってつけてきている」

「分からない。だけど足は速い。

 三つ向こう、私たちが半刻くらい前に通った丘にいるのが見えた」

立ち上がって眼を凝らすが、余りに遠く、霧も在ってよく見えなかった。

「何も見えんよ?」

「……あそこ。ほら、分かる?」

女剣士の傍らにしゃがみ込むと、半エルフは指差して追手を示した。

「あの大き目のけやきから左へ少し行った、なだらかな場所」

「何処だ……あそこか!」

やがて丘陵の頂きに複数の黒い点が動き回っているのに気づいて、女剣士は息を呑む。

「確かに二十はいるな。しかも此方へと向かってきている」

二人の旅人が緊迫した様子で話し合っているのを見て、近くで休んでいた赤毛の娘と青年も顔を見合わせた。

「逃げの一手しかない」

頷くとすぐに歩き始めながら、だが黒髪の女剣士は微かに首を傾げた。

「だが、奴ら。此の不慣れな丘陵地帯でどうやって我らの後をついてきているのだ?」


 追跡は、大して難しくなかった。

険しい地形であれば自然と通れるルートは限定される上、一番近い人族の居留地は南にある。

対象の向かう方角まで分かるのならば、踏みしめた草や折れた枝など僅かな痕跡でも見分けることの出来る熟練の狩人たちにとっては充分であった。

後は相手より早く動く事が出来れば、自然と追いつけるであろう。

「ふふっ、時折、後戻りして足跡を消したり、別行動したりしてる」

 地面の足跡を眺めながら、フードを被った黒エルフの女の呟きに、隣を歩く黒エルフの青年が獰猛な笑みを浮かべて応えた。

「エルフの技だな。此方を誤魔化す心算だろうが、稚拙だ。時間稼ぎにもならん」

 雇われた狩人である黒エルフたちの足取りは速いが、オーク達も汗をかきながらもついていっていた。

あらかじめ追跡隊には、スタミナのあるオークを選んであった。

ペースについていけない者は、容赦なく途中に置いていく。脱落したら後日、合流すればいい。

「此の侭のペースで進めば、恐らく夕方になる前に追いつける」

褐色の肌の黒エルフ娘は、不敵な笑みを浮かべて呟いた。

「エルフがいるなら、あの女剣士もいっしょだろうね」

薄い灰色の瞳は熾き火のように爛々と煌めいていて、黒いオークに頼もしさを感じさせた。

「くっく。それほど待ち遠しいか?ジル」

「ブーツの足跡が乱れてきている。かなりの傷を負ってるし、焦ってもいるようだ。

 残念だけど、それほど楽しめる戦いにはなりそうもないけどね」



 朝方に漂っていた濃密な霧は、魔法のように消え去っていた。

エリスは幾度か追跡者を惑わそうと仕掛けを試みたが、目に見えた効果は上がらなかった。

近づいてくるオークの気配を感じ取った訳ではなかろうが、二人の村人も只ならぬ様子に緊張した面持ちで無言でついて来ていた。

「……オークめ」

 アリアは苦しげに喘いでから、後方に視線をやって忌々しげに舌打ちした。

この年に至るまでの戦歴で、黒髪の女剣士は殆ど戦に負けた事がなかった。

豪族同士の境界争いであろうと、海賊や山岳民相手の戦であろうと、殆ど勝ち続けてきたし、

幾つかの負け戦の時も、素早く撤退して傷の小さいうちに領地に逃げ帰っていた。

 それだけの手腕と勘を有している。だから、泥に塗れる惨めな敗走など知らない。

積み重ねられてきた勝利の記憶が、今は悪い方向へと作用していた。

敗北の経験が無く、耐え忍ぶべき状況に置いての耐性が低い。

土地勘のない場所で、手負いとなり、狐のように追い掛け回される体験など想定もした事すらない。

全くの未体験である惨めで苦しい敗走に、激しく神経を消耗していた。

恐怖と消耗に瘧のように全身が震えていた。

「まだ場所まで掴まれたわけではないだろうけど、四半刻まで迫られている」

エルフ娘も、苦しげに呼吸を乱していた。

此方は、敵に追い掛け回された経験があったが、さすがに強行軍に息切れしていた。

「此の侭では追いつかれる。一か八か、街道に向かって進路を変更するか?」

エリスの提案に、アリアは掌を上げて憎々しげに呟いた。

「いざとなれば迎え撃つさ」

言った途端に、苦しげに二、三度咳き込む。

「何時もの貴女なら兎も角、今のざまでは死ぬだけだな」

呼吸を整えながら自嘲の笑みを浮かべて、彼方をじっと見つめる。

「……追われる立場とは、嫌な気分になるものだな」

「初めてか。私は何度か追われたことがある」

訝しげに見つめられて、翠髪のエルフは肩を竦めた。

「戦に出た訳ではないよ。故郷の森で森ゴブリンとか、近隣の村人とかにね。

 何しろ、弱い氏族だったからよく小競り合いで負けてね」

苦笑を浮かべるエルフ娘に、女剣士は顎に指を当てて首を傾げると呟いた。

「ならば、君は一人なら逃げ切れそうだな。だが、私はもう歩けそうに無い」

「諦めないでよ」

エリスの励ましに首を横に振って、アリアは立ち尽くしている。

全身が汗で濡れており、また傷口の布地が出血に滲んでいる。

「西へ向かおう。街道に出れば、目があるかも」

「無理だ」

即答されて口を紡んで沈黙し、しかし何か手はないかとエリスは必死に考え続ける。

「行きなよ。エリス」

「諦めが早いな。アリア」

エルフの娘は周囲に視線を配った。村人たちも大岩に持たれかかり、肩で息をしていた。

オーク達は指呼の距離まで迫ってきている。

「……奴ら、多分、足跡を追ってきているんだ。

 オークに出来る芸当じゃないと思っていた」

握った拳を震わせて、俯いたエルフが悔しげに呟いた。

「……追っ手には黒エルフもいるから」

瞬間、赤毛の娘の何気ない一言に目を瞠ったエリスが息を呑んで動作を止めていた。

「初めて聞いた。糞ッ」

らしくなく口汚く罵り、半エルフは地団太を踏んだ。

「いっ、言ってなかった?」

「聞いてない!」

歯噛みしそうな顔つきで吼えるエリスの剣幕に、赤毛の村娘はひっとすくみ上がる。

「もう駄目か。行けよ。君だけでも」

アリアの言葉にエリスは片目を閉じた。暫し黙考してそれから苦しげに表情を歪めて提案した。

「二手に分かれよう。そうなれば、どちらかは助かるかも知れない。

 生き残るには、もうこれしかない」



「……足跡が別れたな」

十余名の追跡隊は立ち止まっていた。当惑したように周囲に視線を彷徨わせる。

どちらの道も薄暗い影が差しているが、それでも黒エルフの狩人ならば痕跡を見出すのは難しくない。

「ブーツの足跡が右に行ってる。恐らくはエルフも一緒だ」

「という事は左が本命か」

黒エルフと黒オークが視線を合わせる。

「一応、二手に分かれるとしよう」



「大切なのは足跡を残さないこと」

 四つんばいで土の上を這いながら、岩と土だらけの稜線を横断していく。

時に下生えを掻い潜り、或いは倒木の上を歩いて木々の間を通り、岩を乗り越えて進んでいく。

三百歩か、五百歩か。千歩か。

見当はつかないものの、幾らかの距離を足跡を残さずに移動してから、エルフ娘が立ち上がった。

「さすがに、もうついてこれないと思う。方向転換してジグザグに南西に向かっている訳だし」

オークが狙っているのは、向こうだしな。と、アリアは心の中で呟いた。

正確には酋長を殺害した独眼の青年である。

エリスは、しかし、無言の言葉を聞き取ってしまったらしい。

或いは、懸念しているのだろうか。

「……どっちがいるか分からないからね。こっちを追ってくるのも何人かいると思う。

 でも、言う通りにしてくれれば、私たちだけは絶対に逃げ切れる」

目を閉じてから、苦しげな表情となってエリスは己の人指し指を噛んだ。

「君は助ける……助けてみせるから」

女剣士は忸怩たる想いを抱えているエルフ娘を抱き寄せた。

「分かってる。ありがとう」

 頭を抱くと耳元に囁いてから、エリスの手を引いて歩き出した。

翠髪のエルフは唇を噛んで別れた村人たちを置いてきた方向を眺めていたが、

手を引っ張られると、アリアの後を追って歩き出した。



 旅人達に切り捨てられた。ジナにそれを恨めしく思う気持ちは無かった。

兎も角、オークは直ぐ傍らにまで迫ってきていた。

丘陵の中腹をゆっくりと踏みしめて昇ってくるのが、隠れている窪地からもよく見えたからだ。

 数は六人。裾野に立つ痩せた黒い人影が、まさしく隠れている場所を指差すと、オーク達は軽快な動きで勾配を昇ってくる。

とてつもなく恐い。

単騎で二十ものオークを打ち倒したあの女剣士が、途方もない凄腕なのだと改めて実感できる。

「仕方ないね。やれるだけの事はやったもの」

赤毛の村娘は、震えている幼馴染の手を握って微笑みかけてやる。

「すまねえ。俺が足手纏いにならなければ……」

「いいからさ」

抱きしめてやると、大人しくなった。異性の体温が優しく伝わる。

「楽に死にたいなあ。また乱暴されるのはやだし。あーあ、恋をした事もないのに」

思わず愚痴ってからジナは淡く笑う。

「ルウも助けたかったな。無事かな。私は如何なってもいいから、あの子だけでも助かればいい」

「……如何なってもいいから、助かればいいか。そうだな」

妹の身を案じる村娘の傍らで、青年は切羽詰った表情で言葉を繰り返した。

「ルウはきっと無事だ。きっと豪族達が助けてくれる」

呟いたクームは、果たして誰の顔を思い浮かべていたのか。

赤毛のジナは夢見るように遠い目付きで空の彼方を見つめた。

「そうだね。あの娘はきっと無事に違いないよ」

クームの震えが急に収まった。

残った眼をジナに向けると、静かで穏やかな顔つきで言葉を掛ける。

「お前は反対に逃げろ。いいな」

「え?」

呆気にとられた村娘を残して、クーム青年はいきなり窪地を飛び出すと走り出した。

大声で叫び、腕を振り回しながら稜線をオークが昇ってくるのとは反対の裾野へと駆け下りていく。

「うわああああ!来るな!来るな!糞野郎!近寄るな」

中腹に居たオーク達が吼え声を上げた。一斉に青年を追いかけ始める。

「俺は悪くない。お前らの酋長みたいに殺してやるぞ!近づくんじゃねえ!」

 支離滅裂に叫んでいるクームに狼が群がるように武器を振りかざして追い掛け回し、四方八方から追い詰めていく。

 ジナは呆然と口に両の掌を当てて一部始終を見つめていたが、ハッと気づくと最初は身を伏せて、次いで急いで反対側に駆け出した。

 やがて死の具象化した幾つもの鉄の刃が青年の身体へ追いつき、飲み込まれていった。

惨たらしい断末魔の叫びが耳に届いても、涙を零しながら村娘は彼方へ向かって足を止めずに走り続けた。




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