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騙されやすい公爵令嬢

騙されやすい公爵令嬢は、騎士団長夫人を応援する

作者: くるみ
掲載日:2026/09/05

シリーズになっているので、こちらから読んでいただけると嬉しいです

https://ncode.syosetu.com/n4318mp/

シリーズ:https://ncode.syosetu.com/s7278k/

 秋も終わりに近づいた午後。

 エルフォード公爵家の居間には、南から届いた果物の甘い香りが満ちていた。


「こちらで最後です」


 エステルが銀の盆をテーブルへ置く。

 鮮やかな桃色の果肉を持つ実に、濃い橙色の小さな果物。砂糖で煮たものや、薄く切って乾燥させたものまである。


「まあ。まだありましたのね」


「ミーナがたくさん送ってきましたから」


「ミーナったら」


 リリアは嬉しそうに笑った。


「南には、こちらでは見たことのない果物がたくさんあるそうですわ」


 向かいに座っていたヴィオラ・ベルク伯爵夫人が、珍しそうに皿を覗き込む。


「ミーナは元気そうなの?」


「ええ。暑いのにはまだ慣れないそうですけれど、お菓子を探すのは楽しいって」


「それならよかったわ」


 ヴィオラの隣では、夫のクラウスも珍しい果物を口へ運んでいた。


「美味しいでしょう?」


「ああ。これは王都でも人気が出そうですね」


 ミーナが南へ旅立ってから、すでに何度か手紙が届いていた。

 市場で見つけた菓子のこと。

 港へ入ってくる外国船のこと。

 暑さに負けて冷たい果汁ばかり飲んでいたら、取引先の人に笑われたこと。

 そして、リリアが好きそうなものを見つけるたび、こうして箱へ詰めて送ってくる。


 ヴィオラが紅茶を飲みながら、リリアに尋ねた。


「そういえば、お二人の結婚式はいつごろなの?」


 リリアが瞬いた。


「まだ決まっておりませんの」


「僕としては、今すぐでもいいんだけどね」


 セオドアが言った。


「まあ。今すぐですの?」


「できることなら」


 セオドアは笑った。


「ただ、僕が王太子になって、まだ日が浅いからね。まずは国内を落ち着かせないといけない」


「一年も?ずいぶんリリアを待たせますのね」


 ヴィオラが尋ねる。


「ああ。少なくとも1年くらいは、国内のために使うつもりだよ。各地へ足を運んで、領主たちとも直接話したい。王都から遠い土地ほど、僕のことをよく知らない人も多いから」


「顔見せかしら?」


「それもあるね。僕がどういう考えで国を動かすのか、知ってもらわないといけないからね」



 その日は、夕方になる前にヴィオラ夫妻は帰っていった。

 見送ったあと、リリアはもう一度居間へ戻った。

 セオドアはまだ残っている。


 テーブルには、南から届いた果物がいくつか残っていた。

 リリアが、その一つを手に取る。


「こういう外国から届くものって、国へ入るときに全部調べるのですか?」


「全部を開けて調べるわけではないよ。南から船で来るものなら、港で品物の種類や量を申告することになっている」


「北から来るものも同じかしら?」


「北は陸続きだから、国境の関所だね。仕組みは同じだよ」


「そうなのですね。この間の毒のこともありましたし、少し怖いですわ」


 セオドアがリリアを見る。

 リリアはそれ以上尋ねず、果物を皿へ戻した。


 少しして、セオドアが声を落とす。


「これは、まだ外では話さないでほしいんだけど」


「はい」


「北の処分も決まったよ」


 リリアが顔を上げる。


「当主と長男は処刑。伯爵家は子爵家へ降格されて、次男が継ぐことになった」


「そうなのですね」


「本来なら家そのものがなくなってもおかしくなかった。ただ、次男はかなり優秀な人物らしく、北の王は家を残す代わりに、当主と長男には責任を取らせたみたいだね。まあ、そこから先は北の国内のことだからね」


「アストリッドお姉様は、どうなさっていましたの?」


「たいそうお怒りだったそうだよ」


「まあ。お姉様を怒らせるなんて、本当に悪い方ね」


 リリアは困ったように眉を下げた。

 少しして、何かを思い出したように顔を上げる。


「そういえば、ハーグレイヴ公爵家のご長男は、騎士団で有名な方でしたわよね」


「ギルバート?」


「ええ。ルシアン様のお兄様」


「第1騎士団長だよ。将来の騎士総団長候補とも言われている」


「お強い方ですの?」


「かなりね」


「まあ」


 リリアの目が輝く。


「奥様も騎士だよ。第4騎士団の副団長」


「女性の方ですの?」


「女性では初めてだね」


「素敵ですわね」


 リリアはますます興味を持ったようだった。


「私、騎士団を見てみたいですわ」


「騎士団?」


「ええ。それに、セオドア様が剣を使っていらっしゃるところも」


 セオドアが一瞬黙る。


「……僕?」


「ええ」


 リリアはにこにこしている。


「今度、見学に行ってもよろしいですか?」


「もちろん」


 セオドアはすぐに答えた。


「ただ、少し先にしてくれる?」


     ◇


 それから数日、セオドアが第1騎士団の訓練場へ姿を見せる回数は、目に見えて増えた。


「最近、よくいらっしゃいますね」


 ギルバート・ハーグレイヴが言った。

 濃い灰色の髪を短く整えた、背の高い男だった。


 第1騎士団長。

 口数は少なく、規律に厳しい。部下にも厳しいが、それ以上に自分へ厳しいことで知られている。


「最近、少し身体が鈍っていたからね」


 セオドアが剣を構える。

 刃を潰した鋼の訓練剣がぶつかり、高い音が響いた。


 少し離れたところから、その様子を眺めている男がいた。


「ずいぶん熱心だねえ」


 第4騎士団長、ジュリアン・ウェルズだった。

 侯爵家の嫡男でありながら、堅苦しいところがほとんどない。部下にもよく話しかけ、冗談も言う。

 けれど、いざ剣を握れば誰より周囲をよく見ている男だった。


「何かあるのでしょうか」


 隣にいた女性が尋ねる。

 長い黒髪を高い位置で一つに束ねている。


 セシリア・ハーグレイヴ。

 第4騎士団副団長であり、ギルバートの妻だった。


「王太子殿下の婚約者が、今度見学に来るそうだよ」


「それとどういう関係があるのですか」


 ジュリアンはセシリアを見る。


「君、本当にそういうところ、ギルバートに似てるねえ」


「そうでしょうか。鍛錬に励まれるのは良いことです」


 ジュリアンは少し笑った。



 見学当日、見学席には、普段よりずっと多くの貴族令嬢が集まっていた。

 王太子が訓練へ参加する。

 それだけで、人が集まるには十分だった。


「殿下、こちらをご覧にならないかしら」


「先ほどの剣、ご覧になった?」


「やっぱり素敵ね」


 華やいだ声が飛ぶ。


 王太子には婚約者がいる。

 本来なら、あまり露骨に振る舞えば、その婚約者を敵に回しかねない。

 けれど、その婚約者はリリア・エルフォードだった。

 人を疑わず、騙されやすいことで有名な公爵令嬢。

 少しくらい王太子へ色目を使っても、きっと気づきもしない。

 そう考えている者は少なくなかった。


 見学席の中央で、リリアはいつものようににこにこしていた。

 セオドアが相手の剣を弾く。


「まあ」


 小さく声を漏らし、嬉しそうに手を合わせる。


 次の相手が踏み込む。

 セオドアは半歩だけ身体をずらした。

 相手の刃を外へ流し、そのまま切っ先を喉元で止める。

 歓声が上がった。


「殿下!」


「こちらを!」


 セオドアが見学席へ顔を向ける。

 何人もの令嬢が一斉に姿勢を正した。

 けれど、彼の視線は迷わなかった。


 リリアを見つける。

 ふっと笑って、軽く片手を上げた。

 その周囲では、自分へ笑いかけてもらえたと思ったらしい令嬢が何人か頬を染めていた。


 訓練が終わると、リリアはセオドアのところへ向かった。


「お疲れさまでした」


「ありがとう」


「とてもかっこよかったですわ」


 セオドアの動きが一瞬止まる。


「そう?」


「ええ。とっても素敵でしたわ」


 少し離れたところで、ジュリアンが笑った。


「努力の甲斐がありましたねえ」


「ジュリアン、聞こえているぞ」


「失礼いたしました」


 まったく悪びれずにそう言った。

 リリアは可愛らしく首を傾げる。


 その横で、一人の女性が剣を収めた。

 長い黒髪が高い位置で揺れる。

 先ほどの訓練でも、相手の剣を軽やかにかわし、流れるように間合いへ入り込んでいた女性だった。


 リリアの目が輝いた。


「まあ。あの方、とても素敵ですわね」


「セシリア?」


「ええ。剣を振っていらっしゃるのに、まるで踊っているみたいでしたわ」


 リリアは楽しそうに女性を見つめる。


「お話ししてみたいですわ」


 セオドアが少し笑った。


「呼ぼうか?」


「よろしいの?」


「もちろん」


 呼ばれたセシリアがこちらへ来る。


「セシリア・ハーグレイヴです」


「リリア・エルフォードですわ」


「存じております」


 セシリアが一礼した。


「先ほど、とても素敵でした」


「ありがとうございます」


「本当に軽やかで。あんなふうに剣を使えるなんて、綺麗ですわね」


 セシリアが少しだけ目を瞬いた。


「綺麗、と言われたのは初めてです」


 リリアはにこにこしている。


「もしご迷惑でなければ、今度お茶をご一緒していただけませんか?」


「私と、でしょうか」


「ええ」


 セシリアは少し驚いたようだったが、やがて頷いた。


「私でよろしければ」


     ◇


 数日後、王都でも評判の菓子店は、晩秋の冷たい風から逃れてきた客で賑わっていた。

 窓際の席で待っていたリリアは、店の入口が少しざわめいたのに気づいた。

 リリアの近くでは、エステルが静かに控えていた。


「あの方、第4騎士団の副団長ではなくて?」


「まあ……素敵ね」


 セシリアが入ってきた。

 濃紺の細身の上着に、乗馬服に近い装い。

 長い黒髪は今日も高く束ねられている。


「お待たせしました」


「いいえ。来てくださってありがとうございます」


 セシリアの後ろには2人の侍女が控えていた。

 そのうちの一人は、栗色の髪を柔らかく巻いた若い娘だった。


「まあ。可愛らしいお店ですわね」


「ロザリー」


「はい、奥様」


「控えていなさい」


「失礼いたしました」


 娘はにこりと笑い、一歩下がった。


 ロザリー・ラングレー男爵令嬢。

 セシリア付きの侍女の一人だった。


 その日の季節のケーキは、赤い林檎を薄く切り、薔薇の花のように重ねたものだった。


「綺麗ですわ」


 リリアが嬉しそうに言う。


「食べるのがもったいないくらい」


「ええ」


 セシリアも赤い林檎をしばらく見つめていた。


「こういうもの、お好きです?」


「……好きです」


「まあ」


「花の砂糖細工も好きです。リリア様のような華やかなドレスも、素敵だと思います」


「嬉しいですわ。セシリア様はお召しになりませんの?」


 セシリアは少しだけ困ったように笑った。


「騎士服のほうが、私らしいと思われていますから」


「でも、お好きなのでしょう?」


「……はい」


 その横で、給仕をしながらロザリーが柔らかく笑った。


「まあ。奥様にも、そういうお好みがおありだったのですね」


 セシリアが彼女を見る。


「知らなかった?」


「ええ。だって、いつも騎士服ばかりでいらっしゃいますから」


 ロザリーは悪びれもせず微笑んでいる。


「でも、とてもお似合いですわ。旦那様も、奥様には華やかなお召し物をお選びになりませんものね。きっと、よくわかっていらっしゃるのでしょう」


 セシリアの指が止まった。


「……そうですね」


「羨ましいですわ」


 ロザリーが言った。


「私でしたら、好きな方の前では少しくらい可愛らしく見られたいと思ってしまいますもの」


 恥ずかしそうに頬へ手を添える。


「奥様のように、そういうことを気になさらず、ご自分らしくいられる方は素敵ですわ」


 セシリアは何も答えなかった。

 リリアはロザリーを見る。


 ロザリーは、笑っていた。

 リリアもにこりと笑い、林檎のケーキを一口食べた。

 エステルはそれを静かに見ていた。


「幼いころから剣がお好きでしたの?」


 リリアが尋ねる。


「はい」


「ご家族は反対なさらなかった?」


「かなり」


「まあ」


「母には、剣術をやめるようにと何度も言われました」


「大変でしたのね」


「今となっては、笑い話です」


 セシリアはそう言ったが、赤い林檎を見ていた目は、先ほどより少しだけ静かになっていた。


 ハーグレイヴ公爵家では、セシリアに女性らしい振る舞いを求める者はほとんどいなかった。

 結婚するとき、ギルバートが屋敷の者へ命じていたからだ。

 騎士としての勤務を妨げないこと。

 公爵家の跡取りの妻だからと、無理に社交へ出さないこと。

 騎士を辞めるよう勧めないこと。

 衣服も、本人が望むものを優先すること。

 ギルバートなりに、妻が結婚前と変わらず生きられるようにしたつもりだった。


 ただ、夫婦はどちらも言葉が少なかった。

 セシリアは華やかな服が欲しいとは言わなかった。

 ギルバートも、着たいかとは尋ねなかった。

 そのため屋敷の者たちは、いつしか奥様はそういうものを好まないのだと思うようになっていた。


 ロザリーも、そのことをよく知っていた。


     ◇


 ある日の夕方。


「ギルバート様、お疲れではありませんか?」


 帰宅したギルバートへ、ロザリーが声をかけた。


「お茶をお持ちしましょうか?」


「必要な――」


 そこでギルバートは言葉を止めた。


「……いや。茶を頼む」


 ロザリーの顔がぱっと明るくなる。


「はい」


 普段なら、それで終わる。

 しかし、その日は違った。

 茶が運ばれると、ギルバートはロザリーを見た。


「君は、ラングレー男爵家の娘だったな」


「ええ」


「少し聞きたいことがある」


 ロザリーが目を丸くした。


「私に?」


「ああ」


 それだけの返事だった。

 けれど、ロザリーは嬉しそうに微笑んだ。


「何でもお聞きくださいませ」


 翌日、訓練を終えて帰宅したセシリアは、小さな応接室の前で足を止めた。

 扉が少しだけ開いている。


「昨日のお話ですけれど」


 ロザリーの声がした。


「ええ。もう少し思い出したことがございますの」


「聞かせてくれ」


「もちろんですわ」


 ロザリーの声が弾む。


「ギルバート様のお役に立てるのなら、私、何でもいたしますもの」


「助かる」


 短い返事。

 それだけだった。


 それでも、普段ほとんど誰とも長く話さない夫が、同じ女性と続けて話をしている。

 セシリアは扉の前に立ったまま、動かなかった。


 やがて、ギルバートが部屋から出てくる。


「セシリア」


「お帰りなさいませ」


「ああ」


 ギルバートは一瞬、何か言おうとした。

 けれど、廊下の向こうから騎士が彼を呼んだ。


「すまない。あとで」


「はい」


 ギルバートが去っていく。

 その後ろ姿を見送ってから、セシリアも自室へ戻ろうとした。


「奥様」


 ロザリーが追いかけてきた。


「何?」


「ご心配なさらないでくださいませ」


 セシリアが足を止める。


「何を?」


「まあ」


 ロザリーは一瞬だけ驚いた顔をした。

 それから、申し訳なさそうに笑う。


「余計なことでしたわ。旦那様とは、少しお話をさせていただいているだけですもの」


「私は、何も聞いていません」


 ロザリーが目を伏せる。


「旦那様って、思っていたよりお優しい方なのですね。私、あまりお話しにならない方だと思っておりました」


「……そう」


「奥様は騎士団でお忙しいですものね」


 ロザリーが微笑む。


「旦那様も、お話し相手がおそばにいれば、少しはお寂しくないのかもしれませんわ」


 セシリアがロザリーを見る。

 その視線を受けて、ロザリーはすぐに頭を下げた。


「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました」


「……ええ」


「失礼いたします」


 ロザリーは軽い足取りで去っていった。


 その日の夜、セシリアは食卓でギルバートと向かい合っていた。

 ギルバートはいつも通りだった。


 食事を終えれば、明日の騎士団の予定を確認する。

 セシリアもいつも通りだった。

 今日の訓練について話す。


「第4騎士団は、来週から東の森で演習です」


「聞いている」


「3日ほど屋敷を空けます」


「わかった」


 それだけ。


 今までは、それでよかった。

 互いに必要なことを知っている。

 それで十分なのだと思っていた。

 けれど今は。


『ギルバート様のお役に立てるのなら、私、何でもいたしますもの』

『助かる』


 昼間聞いた声が、頭から離れなかった。


 数日後、ロザリーは第1騎士団の訓練場近くまでやってきた。

 本来なら、セシリアの外套を持って待っているはずだった。

 けれど、ギルバートが姿を見せると、すぐにそちらへ向かう。


「ギルバート様」


 小さく呼び止める。

 ギルバートが足を止めた。


「昨日お尋ねになったことですけれど」


「ああ」


「父から以前届いた手紙を読み返してみましたの」


 ロザリーが、小さく折り畳んだ紙を差し出した。


「よく使っている商会の名前を書いておきましたわ」


 ギルバートが受け取る。


「そうか。助かった」


 ロザリーの顔が明るくなる。


 遠くから見れば、親しげな男女に見えた。

 ロザリーは淡い桃色のドレスを着ていた。

 髪には小さな白い花が飾られている。

 その隣に立つギルバートは、いつもの黒い騎士服だった。


 セシリアは目を逸らす。


「セシリア」


「はい」


「剣先がぶれてるぞ」


 ジュリアンが言った。


「ぶれていません」


「ぶれてるから言ってるんだよ」


 セシリアが踏み込む。


 速い。

 けれど、いつもなら迷わないはずの切っ先が、一瞬だけ揺れた。

 ジュリアンが刃を流す。

 セシリアの剣が横へ逸れた。


「ほら」


「……申し訳ありません」


「何かあったのか?」


「何もありません」


「そうか」


 ジュリアンはそれ以上聞かなかった。

 けれど、その視線は、セシリアの向こうにいる2人へ向けられていた。


 それから、噂はあっという間に広がった。


「ハーグレイヴ団長は、最近あの男爵令嬢と親しいらしい」

「毎日のように話しているのでしょう?」

「奥方とは、あまり話していないらしい」

「明日の王宮の夜会も、もしかしたらロザリー嬢とご一緒なのでは」

「やっぱり、もっと柔らかい感じの女性のほうが――」


 そんな声が、騎士団の廊下でも聞こえるようになった。


 ある日、ロザリーがそこを通りかかった。


「あ」


 話していた若い騎士たちが、慌てて口を閉じる。


「すみません。変な噂を」


「まあ」


 ロザリーは頬へ手を添えた。


「そんなことをおっしゃってはいけませんわ」


「ですよね」


「奥様のお耳に入ったら、困ってしまいますもの」


 俯いて、恥ずかしそうに笑う。


「私とギルバート様は、ただ少しお話をさせていただいているだけですから」


「おい」


 背後から声がした。

 騎士たちの顔が引きつる。

 ジュリアンが立っていた。


「ずいぶん暇そうだねえ」


「団長」


「あと50周」


「50周ですか?」


「60がいいか?」


「行ってまいります」


 騎士たちはすぐに走り出した。

 ロザリーも一礼して去っていく。


 ジュリアンはその背中を見てから、視線をセシリアへ向けた。

 セシリアは何も聞いていなかったような顔で、剣の手入れを始めた。


 その日の訓練が終わると、ジュリアンはギルバートを呼び止めた。


「お前の目はどこについてる」


 ギルバートが眉を寄せる。


「突然何です」


「セシリアの剣、見たか?」


「見ています」


「じゃあ、何でわからない」


「何がです」


 ジュリアンは溜息をついた。


「好きで娶ったんだろう」


 ギルバートの足が止まる。

 ジュリアンの声から、いつもの軽さが消えていた。


「俺は覚えてるぞ。あいつが初めて騎士団の訓練へ混ざった日」


 まだセシリアが正式な騎士になる前だった。

 何度倒されても剣を握り直していた少女。


「お前、あいつが訓練を終えるまでずっと見てただろ」


 ギルバートは黙っている。


「剣を持ったあいつに惚れたんだろうが」


「……」


「その剣が今、あれだけ乱れてる」


 ジュリアンは真っすぐギルバートを見る。


「お前が大事にしないなら、ほかの男が放っておかないぞ」


 ギルバートの顔から、わずかに色が消えた。


     ◇


 その夜、ギルバートは一人で妻の帰りを待っていた。

 ジュリアンの言葉が頭から離れなかった。


 数日前、王太子に密かに呼ばれた。

 北から国境を越えて入ってくる荷の申告を調べ直したところ、いくつかの家で不自然な数字が見つかったという。

 その一つが、ラングレー男爵家だった。


 妻付きの侍女がその家の娘なら、何か知っているかもしれない。

 警戒させないよう、自然に話を聞いてほしい。

 そして、調査に関わることは、妻にも含めて何一つ話さないように。


 そう命じられていた。


 だから、あの日、ロザリーへ茶を頼んだ。

 彼女自身に興味があったわけではない。

 ラングレー男爵家について聞きたかった。


 ロザリーは予想以上によく話した。


 北との交易に使っている街道。

 付き合いの長い商会。

 父親が懇意にしている関所の役人。

 どの季節に、どの程度の荷が入るのか。


 ギルバートが一つ尋ねれば、それ以上のことまで答えた。

 自分の家の商いを誇らしく思っているらしかった。


 翌日、彼女が「思い出した」と話したのは、北からの荷を一時的に置く国境近くの倉庫だった。

 訓練場で渡された紙には、父親がよく利用する商会の名前が書かれていた。


 そこから調べ直すと、関所へ申告された荷と、実際に倉庫へ運び込まれた量が合わなかった。

 ギルバート自身も騎士団の伝手を使い、街道を行き来する商人を調べた。

 王宮側が関所の記録を洗うと、父親と親しい役人も判明し、不自然な金の流れまで見つかった。


 証拠は、もうほとんど揃っている。


 あと少しだけ黙っていればよかった。

 そのはずだった。


 けれど。


『その剣が今、あれだけ乱れてる』


 ギルバートは立ち上がった。


 王太子からは、妻にも何も話すなと言われている。

 命令や規律を破ったことは、これまでに一度もなかった。


 与えられた役目を果たす。

 知ったことを口外しない。

 命じられたことを守る。


 それが騎士として正しいことだと、ずっと信じてきた。

 今も、それが間違っているとは思わない。


 けれど、その正しさを守った結果、一番大切にしたい人を傷つけているのだとしたら。

 王太子から預かった信頼も、騎士としての誓いも、軽いものではない。


 それでも。

 自分が一番守りたいものは何かと問われれば、答えは最初から決まっていた。


 セシリアだ。


 それなのに、ジュリアンに言われるまで気づかなかった。

 毎日同じ屋敷に帰り、同じ食卓につき、あれほど長く彼女の剣を見てきたのに。


 自分は、なんて愚かなのだろう。

 命令に背くことになっても。

 セシリアが帰ったら、話そう。


 そう思ったとき、扉が叩かれた。


「旦那様。エルフォード公爵家よりお手紙です」


 ギルバートはすぐに封を開いた。


『本日はセシリア様に我が家へお泊まりいただきます。明日の夜会にも、こちらからご一緒いたしますわ』


 短い手紙だった。

 ギルバートは、しばらく動かなかった。


     ◇


 同じころ。


「私、もう駄目かもしれません」


 エルフォード公爵家の客間で、セシリアはそう言った。

 リリアが目を瞬く。


「どうなさったの?」


「最近、ギルバート様が、私の侍女とよく話しています」


「ロザリー?」


「はい」


 セシリアは自分の手を見る。

 剣だこがある。


「最初は何か用があるのだと思っていました。でも、このところ毎日のように話しているのです」


 リリアは黙って聞いている。


「私の実家は子爵家です」


「ええ」


「ギルバート様は、王家と争う意思がないと示すために、家格の低い私を選ばれたのです」


 声が少し小さくなる。


「なら、私でなくてもよいのです」


「……」


「公爵家の跡取りであるギルバート様が家格を求めていないのであれば、男爵家の娘でも何も問題はないでしょう」


 リリアは何も言わない。


「それでも、よかったのです」


 セシリアの声が震えた。


「無口でも、あの方がどんな方なのかは知っているつもりでした」


 誰より早く訓練場へ来ること。

 部下の失敗を、自分の責任として上へ報告すること。

 疲れているときほど、何も言わなくなること。

 剣の手入れだけは、どれほど遅く帰っても自分ですること。


「私は言葉にするのが上手ではありません」


 セシリアの指がゆっくり握られる。


「だから、せめてあの方の隣に立って恥ずかしくない騎士でいようと思って、ずっと頑張ってきたのです」


「セシリア様」


「でも最近は、私にはほとんど何もおっしゃらないのに、あの侍女とは何度も話しているのです」


 唇を噛む。


「彼女は可愛らしくて、よく笑って、あの方にも自分から話しかけられます」


 セシリアは自分の手を見た。


「私は、剣しかありません」


「そんなことありませんわ」


「いいえ。そう思っていたのです。剣があれば、あの方の隣にいられると」


 小さく息を吸う。


「それなのに、あの方が別の女性を見ているのだと思ったら……もう、どうしたらいいのかわからなくなりました」


 リリアはしばらくセシリアを見ていた。


「ギルバート様の隣から、離れたいのですか?」


 セシリアが顔を上げる。


「……いいえ。でも、それがギルバート様の幸せなのであれば」


「本当に、そう思っていらっしゃいますの?」


 リリアは静かに尋ねた。

 セシリアは目を伏せた。


 しばらくして、口を開く。


「……私は、あの方の隣にいたいです」


 セシリアは姿勢を正したまま、流れる一筋の涙をぬぐわなかった。

 リリアはそれを見て、ふわりと笑った。


「では、私に良い考えがありますわ」


「良い考え?」


「ええ」


 リリアはにこにこと笑う。


「今日は、私の家でお泊まり会をしましょう」


     ◇


 翌日、夜会の会場である王宮の大広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。

 セオドアとリリアも早くから会場へ入っている。


 ギルバートも姿を現した。

 一人だった。

 礼装はいつも通り完璧に整っている。

 けれど、何度も入口へ目を向けていた。


 やがてリリアのところへ来る。


「リリア様。妻は、まだこちらへ?」


「もうすぐいらっしゃいますわ」


 それだけ言っても、ギルバートはその場を離れなかった。


「ギルバート様」


 甘い声がした。

 ロザリーだった。


 大広間に、小さなざわめきが走る。

 今夜のロザリーは、深い青灰色のドレスを着ていた。

 ハーグレイヴ家の男たちが、礼装でよく身につける色だった。


「あら」

「あの色……」

「やっぱり噂は本当だったのかしら」


 囁きが広がる。

 ロザリーにも聞こえているはずだった。

 けれど、恥じる様子はない。

 むしろ、笑顔を深くした。


「今夜もお会いできて嬉しいですわ」


 ギルバートが彼女を見る。

 ロザリーは微笑んだ。


「この色、いかがでしょう」


 ギルバートの眉がわずかに動く。


「何がだ」


 ロザリーの笑顔が少しだけ固くなる。

 ギルバートはそれ以上尋ねなかった。


「君に伝えることがある」


「まあ」


 ロザリーの目が輝く。


「何でしょう?」


 ロザリーが王宮へ入ったことを確認した時刻に合わせて、ラングレー男爵邸の捜索は始まっていた。彼女が家へ知らせることは、もうできない。


「今、君の家には王家の捜索が入っている」


 笑顔が止まった。


「……何を、おっしゃっているのです?」


「北との交易に関する不正が見つかった」


「そんな」


 ロザリーの顔から血の気が引く。


「どうして……」


「君から聞いた話が、調査を進める手がかりになった」


 ロザリーはしばらく動かなかった。

 今夜、彼女がわざわざ選んだ青灰色のドレスだけが、大広間の灯りの下で浮いて見えた。


「私……」


 一歩、後ずさる。


「私は、そのようなつもりでは」


 そのとき、王宮の騎士が静かに近づいた。


「ロザリー・ラングレー嬢」


「何ですの」


「別室でお話を伺います」


「私には関係ありません。父の商いです」


「そのことも含めて、お伺いいたします」


「でも、私は――」


 ロザリーが何か言い返そうとした、そのとき。


 大広間の扉が開いた。

 人々の視線が、一斉にそちらへ向く。


 最初に目に入ったのは、深い赤だった。

 晩秋に咲く薔薇を思わせる、鮮やかな紅のドレス。

 光沢を抑えた柔らかな布が幾重にも重なり、歩くたびに長い裾が静かに揺れる。

 腰から広がる布には、細い金糸で葉と蔓が刺繍されていた。

 灯りを受けるたび、ごく淡く光る。


 華やかな色なのに、飾りは多くない。

 すらりと伸びた身体の線を隠さず、騎士服のときとは違う形で、その凛とした立ち姿を引き立てている。

 袖は細く腕に沿い、手首のところだけ柔らかな布が重なっていた。


 いつも高く結い上げられている黒髪も、今夜はほどかれていた。

 艶のある長い髪がゆるやかに背へ流れ、片側だけが細い金の飾りで留められている。


 耳元には、小さな赤い石。

 首元にも、同じ色の石が一つだけ光っていた。


「どなた?」


「まあ……」


「お綺麗」


 騎士服のセシリアしか知らない者は、すぐには気づかなかった。


 髪型も違う。

 服も違う。

 纏う雰囲気さえ、いつもとは少し違った。


 それでも。

 ギルバートだけは、扉が開いた瞬間に気づいていた。


「セシリア」


 迷わなかった。


 人前へ出る前、一度だけ顎を上げる癖も。

 背筋を真っすぐ伸ばして立つ姿も。

 歩き出せば、決して足を迷わせないことも。

 見間違えるはずがなかった。


 セシリアが彼を見る。

 その間にも、近くにいた何人かの男が彼女へ声をかけようとしていた。


 ギルバートは人の間を抜ける。


「失礼」


 礼儀は崩さない。

 けれど、足は速い。


 セシリアの前まで来る。


「ギルバート様?」


「君を失いたくない」


 セシリアが息を呑む。


「私は、剣を持つ君を初めて見た日から、ずっと君が好きだ」


 ギルバートが手を差し出す。


「これからも、私の隣にいてくれないか」


 セシリアの目が大きくなる。

 しばらく、何も言えなかった。


「……はい」


 そしてようやく、その手を取った。

 少し離れたところで、ジュリアンが静かに笑った。


 夜会も終わりに近づいたころ。

 セシリアはリリアのそばへ来た。


「今日は、本当にありがとうございました」


「いいえ」


 リリアは嬉しそうに笑う。

 セシリアは自分の赤いドレスへ目を落とした。


「こんなに華やかな服を、自分のために選んだのは初めてでした」


「とてもお似合いですわ」


「……楽しかったです」


 セシリアは少し照れたように笑った。


「まあ」


 リリアの顔が明るくなる。


「では、また一緒に選びましょう」


「またですか?」


「ええ。でも、もちろん騎士服のセシリア様も大好きですわ」


 リリアはすぐに答えた。


「どちらも素敵ですもの」


「私もだ」


 隣にいたギルバートが言った。

 セシリアがギルバートを見上げる。


「……何がです?」


「騎士服の君も好きだ」


 セシリアの頬が赤くなる。


「ドレスの君も」


「……はい」


「どちらも好きだ」


 セシリアの顔は真っ赤に染まった。

 リリアは、それを見てにこにこと笑っていた。


     ◇


 夜会から戻ったあと、エルフォード公爵は娘を書斎へ呼んだ。


「ラングレー男爵家は、爵位を失う可能性が高い」


「まあ。残念ですけれど、悪いことをしたのでしたら仕方ありませんわね」


 父はリリアに尋ねた。


「ラングレー男爵家が、ミーナを遠縁として迎え入れていた家だったことは覚えているかい?」


 リリアが目を丸くした。


「私ったら、すっかり忘れていましたわ」


 そうして、にっこりと笑った。


「では、ミーナを南へお願いしておいてよかったですわ。あちらは、こちらほど爵位を気にしない土地ですもの」


 父が娘を見る。

 リリアは変わらず、にこにこと笑っていた。


「……そうだね」


     ◇


 北の国では、すでに雪が降り始めていた。


 新しい当主は、南から届いた報告書を最後まで読んだ。


 ラングレー男爵家が摘発された。

 北との交易を長く続けてきた家だった。

 商いだけではない。

 南の事情を知るうえでも、長く頼ってきた伝手の一つだった。


 男は報告書を机へ置いた。


 父と兄が処刑され、自分が家を継いだ。

 伯爵家だった家は、子爵家へ落とされた。


 兄は南で企てに失敗し、帰国後、父とともに処刑された。

 その直後、妹はエルフォード公爵令嬢のそばを離れ、海を渡ってさらに南の港町へ送られた。

 そして今度は、長年使ってきたラングレー家まで摘発された。


 男はもう一度、報告書を開いた。

 最初から、ゆっくりと目を通す。


 一つずつなら、理由はつく。


 兄の失敗。

 妹の移動。

 長年の伝手の消失。


 だが、偶然にしては続きすぎている。


 男の指が、紙の端で止まった。


「……誰かいるな」


 窓の向こうでは、細かな雪が音もなく降っていた。

北の国のお話を始めました。よろしければぜひ。

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― 新着の感想 ―
2、3作ならともかく8作も短編ですか、さらに続く様なら連載にして下さい。
あ〜北の国の話はこれでああなるわけね…!なるほど〜〜 残された弟はやべー奴に手を出したことにいつ気がつくかなぁ…。たぶんここんち本人が思ってるよりやべーんでは… それはそれとして南国の果物美味しそう!…
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