プロローグ後編
「――ひ、ふぅ、ひ、ふぅ……ッ!!」
私立純蓮高校、西校舎の女子トイレ。
個室に飛び込み、鍵をかけた途端、結城菫は胸を押さえて激しく過呼吸を繰り返した。
その顔は熟しきったトマトどころか、今にも沸騰して頭頂部から蒸気が出そうなほどに紅潮している。
「雄介様が……男が、私に微笑みかけてくださった……! 『雲一つない青空だよね』って……! ああ、あれは実質『僕の心には君しか映っていない』というプロポーズでは!? いや、私の髪型を褒めてくださったのかしら!? 婚姻届、婚姻届はどこ!?」
個室の中、菫は猛獣さながらに身悶えながらも、その手だけは精密機械のように動かしていた。「雄介様の御言葉」と表紙に引かれたメモ帳へ、今日の会話ログを狂ったように書き殴っていく。
だが、その時。
コンコン、と冷徹に個室のドアが叩かれた。
「――そこまでになさい、結城さん。声が外まで漏れていますよ」
冷たい声の主は、今月の月末試験暫定1位、つまり所雄介の『正妻席』に最も近い位置にいる胡蝶佳澄だった。
ドアの向こうから、冷酷な宣告が響く。
「純蓮高校の校則第4条。男子生徒の前、および敷地内において、淫らな妄想を口に出し、または淑女として不適切な挙動を見せた者は、生活態度点は大体マイナス50点と言うところかしら。…… 今の声を私が風紀委員会に通報すれば、あなたの来月の1組(雄介のクラス)残留は危ういわね?」
「っ……!!」
菫はガタガタと震え、慌てて口を両手で塞いだ。
来月の1組枠は、わずか29席。
成績が優秀なだけではダメだ。日常の全行動を「淑女」として完璧に律し、ポイントを稼いだ者だけが、所雄介のクラスに入る権利(合法的に同じ空気を吸い、視界に入る権利)を得られる。
もし、ここでハメを外して減点され、2組以下に落とされれば――来月の1ヶ月間、雄介の顔を見る資格すら失う。それは彼女たちにとって、死に等しい。
「……し、失礼いたしました。取り乱しましたわ。私はただ、雄介様の健やかなる体調を心配していただけでしてよ」
「よろしい。お互い、月末試験までは【淑女】でいましょうね。……まぁ、今月も1位は私ですけれど」
ドアの向こうで、ヒロイン候補の少女はフッと妖艶に微笑む。
その脳内では、結城を遥かに凌駕する『雄介との新婚生活(子供は3人、一戸建て)』の妄想が、凄まじい処理速度で演算されていた。
彼女たちが淑女でいられるのは、理性が高いからではない。
欲望が深すぎるがゆえに、完璧に自制しているだけなのだ。




