殺してくれ :約4000文字
「ほら早く、おれを……おれを殺してくれ……!」
おれの手に包丁を無理やり握らせた男は、鬼気迫る声でそう言った。体は小刻みに震えているのに、指先が白くなるほど力が込められている。口元には泡が溜まり、血走った目がこちらを射貫くように見据えていた。
ああ、なぜこんなことになってしまったんだ――。
すべては昨日の夜のことだった。
仕事帰り、いつもの道を歩いていたおれの前に、電柱の陰から男がぬらりと現れた。
「うおっ……」
おれは思わず短く声を漏らし、反射的に軽く会釈をしてそのまま横を通り過ぎようとした。
だが、男はなぜかずいと体を寄せ、おれの進路を塞いできた。
「待ってくれ……」
「え? あっ」
低く、縋りつくような声だった。足を止めた瞬間、男は背中に手を回し、ズボンに挟んでいたのだろう、何かを引き抜いた。外灯の光を受け、それは鈍く光った。
包丁だった。
おれは反射的に一歩後ずさりした。だが驚きが先に立ち、足はそれ以上動かなかった。切っ先から放たれる圧力のようなものに視線が釘付けになり、呼吸が浅くなり、喉の奥がひくりと鳴った。
数拍遅れてようやく思考が追いついた。
――強盗か。
――金はいくらある。
――素直に渡すべきだ。
――いや、今月も余裕がないぞ。隙を見て取り押さえるんだ。
無数の選択肢が頭の中に浮かんだ。だが、そのどれも選べなかった。
選ぶよりも先に男はすっと手首を返し、包丁の向きを変えた。そして、おれに柄を差し出したのだ。
「頼む……おれを殺してくれ……」
「は、はあ?」
「頼むよ、なあ、頼む……!」
男はおれの手を掴み、ぐいと引き寄せると無理やり包丁の柄を握らせてきた。おれはすぐに振り払おうとしたが、思いのほか力が強く、振りほどけなかった。その痩せた体のどこにそんな力があるのか、びくともしない。ただならぬ執念のようなものを感じ、寒気がした。
仕方なくおれは何度か頷き、いったん包丁を受け取った。冷静に考えれば、男に持たせておくよりはいいに決まっている。
「あの、それでどういうことですか……?」
おれは訊ねながら、改めて男を観察した。膝と裾が破けたズボンに、汚れた赤い帽子、ボロボロの上着。そして鼻をつく臭い……。どう見てもホームレスだった。
「殺してほしいんだよ……」
顔には脂が浮き、無精ひげが伸びている。だが、その目には妙に鋭い光が宿っていた。
「あ、あの……お気持ちはわかりますけど、いや、失礼か……。とにかく、保護施設や相談窓口もありますし、そんなに自暴自棄にならなくても……」
おれは言葉を探しながら、とりあえず思いつく限りのことを口にした。みじめで死にたいが自殺する勇気はない――そういうことなのだろう。おれももし自分が同じところまで落ちたら、そんな考えに行き着くかもしれない。そう思うと、なんだか胸の奥がじくじくと痛くなった。
「おれは……神なんだ」
「はい……え?」
「おれはかつて天界にいた。だが他の神々の罠に嵌り、この地上に落とされたんだ」
「えーっと……そうなんですね……」
「天界に戻るには、この肉の檻を壊さなきゃならない。だから、あんたに頼んでるんだ。さあ、おれを殺してくれ。ほら早く」
なんということだ……。
胸の奥に絶望めいたものがぐんぐんと広がっていった。
いや、いきなり「殺してくれ」と頼んできた時点で、狂人であることに間違いはない。だが、そこに「自分は神だ」という要素が加わったことで、狂気は一段、いや二段と跳ね上がった。
これはとんでもない相手に絡まれてしまった。さっきまで感じていた哀れみはどこへやら。代わりに恐怖がせり上がってきた。どうすればいい。どうやってこの場を切り抜ければ……。
「あんた、信じてないのか……?」
おれは無意識に一歩後ずさりしていたらしい。男が一歩、距離を詰めてきた。
「いや、その……そういうわけじゃないんですけど……でも何か証拠というか、ほら、超能力みたいなものを見せていただければ……」
「神通力か……」
男は小さく首を横に振った。
「無理だ。この肉の檻に閉じ込められている限り、おれの神の力は封じられている」
男はそう言うと今度は天界の話を語り始めた。どんな場所なのか、どんな神々がいるのか、どんな暮らしをしていたのか――。
おれが質問を挟むと、そのたびに男は淀みなく答えた。
どうやら相当作り込んでいるらしい。その場にいたかのような口ぶりで、言葉に詰まることも一切なく、一瞬本当にそんな世界があるのではないかと感じてしまうほどだった。
妄想を膨らませる以外にやることがなかったのかもしれない。時間だけはいくらでもあったのだろう。
「わ、わかりました。いったん信じるとして……でも、どうして殺される必要があるんですか? こんなこと言うのはあれですけど……自殺すればいいんじゃ……」
「自殺は大罪だ。天界へ戻るどころか、地獄に落ちてしまう」
男は首を横に振り、言葉を続けた。
「殺されなければならないのだ。呪いのせいでこの身は病にもかからず、老いもしない。ずっとこのまま終わりが来ないのだ」
「それは、その……」
「少し羨ましいと思ったか?」
男は鼻で笑った。が、すぐに顔を歪めた。
「戸籍も学歴も職歴もなく、老いた体でずっとこのままなんだぞ。それがどれほどみじめかわかるか……!」
男はわなわなと震え出した。歯を食いしばり、唇を噛みしめ、あふれそうになる感情を押し殺している。その圧が伝わり、思わずおれもみじめな気分になった。もしかすると、自分は神だという妄想はその耐えがたいみじめさから逃げるために、必死にしがみついた最後の拠り所なのかもしれない。
「ガラの悪い連中に喧嘩を売ったこともあったが、まるで相手にされなかった。金がありそうに見えたら、また違ったかもしれんがな」
「はあ……その、どうにかお金を用意して誰かに頼むことは考えなかったんですか?」
「どうにかとは? 盗むのか?」
「あ、いや、そういうつもりじゃ……」
「それもできん。この体で罪を犯せば、死後は地獄行きになる。だからゴミを漁り、生水をすすって生きてきたんだ。腹は減るからな。まったく忌々しい」
男は憎々しげにそう言った。人間という存在そのものを呪い、心底嫌悪感を抱いているようだ。
それも無理はない。これまでどんな扱いを受けてきたのか想像に難くなかった。ボロアパートで一人暮らし。友達も彼女もいない。ただ消耗していくだけのような日々。そして――おれはなんだか自分の未来を覗き込んだような気がして、胃のあたりが重く沈んだ。
「それで、人の良さそうなお前さんを見つけた。こういうのはわかるのだ。今だって、逃げずにこうして話を聞いているだろう」
逃げる――確かにそうだ。その言葉を聞いて、今さらそんな選択肢が浮かび上がったことに驚き、同時にそこに思い至らなかった自分の鈍さを恥じた。
おれは足先に力を込めた。
だがその瞬間だった。
「逃げる気か」
低く、鋭い声だった。直後、男は獣じみた動きで飛びかかってきた。
「殺してくれ! 頼む、頼む!」
「や、やめ――」
あっ――と思ったときにはもう遅かった。
何が神なものか。
包丁が男の喉に食い込んだ瞬間、手のひらに伝わってきた感触はあまりにも生々しく、柔らかく、まぎれもなく人間の肉だった。
男はおれの手を両手で掴むと、そのまま自分の喉を押しつけてきた。そして頭を激しく左右に振った。ぐりぐりと刃がめり込み、ぶち、と肉が裂ける感触が伝わった。血が一気にあふれ出し、おれの手首にかかった。
お辞儀するように何度も何度も首に包丁を打ちつける。そのたびに鈍い音と嫌な手応えが伝わった。
やがて男は膝から崩れ落ちた。
最後にその口から漏れたのは「ああ……」という、どこか満ち足りたような吐息だった。
おれはただ呆然と男の死体を見下ろした。
どれくらい経ったのか。足元でカランと乾いた音が響き、体がびくりと跳ねた。おれの手から包丁が滑り落ちた音だった。
その直後、背後から「あれ?」「やばくね?」と若い男たちの声が聞こえた。
逃げる――遅れて届いた脳からの指令をようやく受け取り、おれの体はぎこちなく走り出した。
翌朝。泥のように眠ったおれは、ぼんやりと体を起こした。頭が重く、現実感が薄い。悪夢を見たあとのように心臓が嫌な跳ね方をしていた。
インターホンが鳴った。おれが起きたのを知っているかのように。あるいは目が覚める前から鳴っていたのかもしれない。
おれは何も考えず、ふらつく足取りで玄関へ向かった。
だが――。
「おれを……」
「わたしを……」
「我を……」
――殺してくれ。
ドアを開けた瞬間、雪崩れ込むように集団が部屋に押し入ってきた。
「あいつに天界から落とされたんだ!」
「お前が殺したんだろう?」
「責任を取って、我々を殺せ!」
「お願い、殺して!」
連中はおれを取り囲み、唾と涙と叫び声を浴びせてきた。
有無を言わさず腕を掴まれ、肩を押さえつけられた。おれが床に倒れると、連中は上に覆いかぶさってきた。
そして――包丁を握らされた。
次の瞬間、昨夜の感触が蘇ってきた。
グチッ……ブチッ、グチャグチャグチャ……。
連中は肉に刃を突き立て、皮膚を裂いた。嬌声を上げ、おれの手を使い、自らの欲望を満たしていく。
繰り返される嫌な感触に脳が揺さぶられる中、おれはぼんやりと考えた。
警察はこの惨状をどう見るのだろうか。
カルト集団の集団自殺か、それともおれが自殺志願者をそそのかしたと判断するのか。
そして――。
おれは死刑になったあと、どこへ行くのだろうか。
地獄か。それとも神を殺したのだから天界か――。




