走り出す額縁
三月。月見野駅のホームには、一年振りに淡い春の光が満ちていた。 私の足元には、キャスター付きの大きなスーツケースがある。中には着替えと、新品の画材、そしてあのスケッチブックが詰め込まれていた。
駅のシンボルである桜の古木は、まだ硬い蕾のままだ。けれど、枝先がほんのりと赤らんでいて、もうすぐ爆発的な春が訪れることを予感させている。 一年前、私はこの木から落ちる花びらを「ゴミ」だと思って払い落とした。 今は、その開花を見届けられないことが、少しだけ惜しい。
遠くから、聞き慣れた警笛が響いた。 カーブを曲がって現れたのは、いつもの気動車だ。 柿渋色とクリーム色のボディ。 かつては「錆びた鉄みたいだ」と蔑んでいたその配色は、今見ると、この土地の土の色や、夕焼けの色によく馴染む、温かみのあるデザインに見える。 プシュー、という音と共にドアが開く。 私はスーツケースを持ち上げ、車内へと足を踏み入れた。
春休み中ということもあり、車内は空いていた。 私はいつもの定位置――最後尾の車両、左側のボックス席に座った。 ドスン、と鞄を置く。 そして、胸ポケットからノイズキャンセリングイヤホンを取り出した。
銀色に光るその小さな機械を、手のひらの上で転がす。 この一年間、私を外界から守ってくれた壁。 私はそれを耳には着けず、ケースにしまい、鞄の奥底へと放り込んだ。 もう、いらない。 今は、このエンジンの振動も、線路の継ぎ目を渡る音も、すべてを記憶に焼き付けておきたかったからだ。
ガタン、と車体が大きく揺れ、列車が動き出した。 ゆっくりと、あまりにもゆっくりと、景色が後ろへと流れ始める。
時速四十キロ。 かつては「人生を遅らせる速度」だと呪ったこの遅さ。 けれど今は分かる。これは、別れを惜しむための速度だ。 新幹線のように一瞬で過ぎ去るのではなく、一軒一軒の家の屋根、手を振る子供、畦道の雑草まで、丁寧に網膜に焼き付けさせてくれる、優しさに満ちたスピードだ。
私は窓枠に手を触れた。 結露で汚れていたガラスは綺麗に拭かれている。 四角い窓枠。 それは私を閉じ込める「檻」ではなく、移ろいゆく美しい故郷を切り取る、一枚の「額縁」だった。
列車は集落を抜け、見渡す限りの田園地帯へと差し掛かる。 私の実家の近く。祖父の田んぼがあるエリアだ。 心臓の鼓動が少し速くなる。
見えた。 まだ水を張る前の、乾いた土の海。その中で、鍬を振るう小さな影があった。 祖父だ。 列車が近づくと、祖父は作業の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。 私は窓ガラスにへばりつくようにして身を乗り出した。
手は振らなかった。 その代わり、祖父は被っていた泥だらけの帽子を脱ぎ、胸に当てて、走っていく列車に向かって深々と頭を下げた。 一礼。 それは、孫への甘やかしではなく、これから厳しい世界へ旅立つ一人の男に対する、対等な敬意の表れに見えた。
「……行ってきます」
喉の奥が熱くなり、視界が滲んだ。 ガラスに押し当てた手のひらに、エンジンの熱と振動が伝わってくる。 祖父の姿が、後ろへと流れて小さくなっていく。 私はその姿が見えなくなるまで、何度も、何度も心の中で繰り返した。 ありがとう。ありがとう。
やがて列車は、千曲川にかかる長い鉄橋へと差し掛かった。 ゴォォォォッ――! 轟音が響き渡り、視界が一気に開ける。 眼下には、春の光を乱反射してきらめく川面。 その眩しさは、私がこれから向かう未来の光のようでもあり、私がここに置いていく思い出の輝きのようでもあった。
私は涙を拭い、前を向いた。 鉄橋の先には、山を貫く長いトンネルが口を開けて待っている。 あの闇を抜ければ、そこはもう隣町。そして、東京へと続くレールの始まりだ。
私はスケッチブックを膝の上で強く抱きしめた。 いつか、必ず帰ってくる。 東京で絵を学び、自分の色を見つけたら。 この鈍色の額縁が切り取った、世界で一番美しい風景を描くために。
列車は長い汽笛を残し、吸い込まれるようにトンネルの闇へと入っていった。 暗転した窓ガラスには、もう迷いのない、一人の画家の顔が映っていた。
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