遅れて届く温もり
私が家に帰り着いたのは、予定よりも三時間も遅れた夜の九時過ぎだった。 雪はまだ、しんしんと降り続いている。 玄関の引き戸をガラガラと開けると、土間には冷え冷えとした空気が漂っていたが、奥の居間からは温かい光が漏れていた。
「……ただいま」 「おう、遅かったな」
居間に入ると、祖父が炬燵に入ったまま、テレビを見ていた。 普段ならもう寝ている時間だ。 私が帰ってくるのを待っていたのだと、すぐに分かった。 祖父は私の方を見ようともせず、画面を見つめたままぶっきらぼうに言った。
「電車、止まってたんだろ。ニュースでやってた」 「うん。雪で、三時間くらい」 「……そうか。腹、減ったろ」
祖父が顎で指した先、ストーブの上で薬缶がシュンシュンと湯気を立てていた。その横には、アルミホイルに包まれたものがある。 焼きおにぎりだ。 焦げた味噌の香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。 いつもなら「夜遅くに炭水化物は食べない」と断るところだが、今日の私は素直に炬燵に入り、その包みを開けた。 まだ熱い。 一口齧る。表面はカリッとしていて、中はふっくらと甘い。味噌の塩気が、冷え切った体に染み渡っていく。
「……じいちゃん」 「あん?」 「これ、見てほしいんだけど」
私は鞄からスケッチブックを取り出した。 今日、車内で描いた絵だ。 雪原に立つ一本の木と、それを見つめるトメさんの後ろ姿。 祖父に見せるのは怖かった。「こんな落書き」と一蹴されるかもしれない。今まで私の夢を否定し続けてきた人だ。
祖父は面倒くさそうに老眼鏡をかけ、スケッチブックを受け取った。 ページをめくる音が、静かな部屋に響く。 祖父の手が、止まった。
「……こりゃあ、一本松か」 「うん。トメさんが教えてくれた。昔、バス停だったって」
祖父は何も言わず、じっとその絵を見つめていた。 その節くれ立った指先が、描かれた木の幹をそっと撫でる。 やがて、ぽつりと呟いた。
「懐かしいな。わしも若い頃、ばあさんとここでバスを待ったもんだ」 「え?」 「この木はな、この辺の人間にとっちゃあ、ただの木じゃねえんだ。みんなの思い出が詰まった、へそみたいなもんだ」
祖父は眼鏡越しに私を見た。その目は、いつもの厳しさではなく、どこか誇らしげに細められていた。
「……いい絵だ。寒さが伝わってくるが、不思議と寒くねえ」 「え……」 「お前が毎日見てる景色は、こういう色をしてるのか」
喉の奥が熱くなった。 「飯が食えるか」と否定された時、私は祖父が芸術なんて分からない人間だと思い込んでいた。 でも違った。 祖父は、私が描く「表面的なデザイン」に、私の心が乗っていないことを見抜いていたのかもしれない。 そして今、私が初めてこの土地と向き合い、心を通わせて描いた線には、ちゃんと反応してくれた。
「……ありがとう」
私は小さく呟いた。 祖父は「ふん」と鼻を鳴らし、スケッチブックを閉じて私に返した。
「受かるといいな、東京」 「……うん」
それだけの会話だった。 けれど、私の中で何かが確実に解けた気がした。 今まで「出ていくため」の勉強だった受験が、「ここで得たものを形にするため」の挑戦に変わった瞬間だった。
その夜、私は久しぶりにイヤホンをせずに眠りについた。 屋根に積もる雪の音が、心地よい子守唄のように聞こえた。
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