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秒速11メートルの額縁  作者: と゚わん


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6/7

遅れて届く温もり

私が家に帰り着いたのは、予定よりも三時間も遅れた夜の九時過ぎだった。  雪はまだ、しんしんと降り続いている。  玄関の引き戸をガラガラと開けると、土間には冷え冷えとした空気が漂っていたが、奥の居間からは温かい光が漏れていた。


「……ただいま」 「おう、遅かったな」


 居間に入ると、祖父が炬燵こたつに入ったまま、テレビを見ていた。  普段ならもう寝ている時間だ。  私が帰ってくるのを待っていたのだと、すぐに分かった。  祖父は私の方を見ようともせず、画面を見つめたままぶっきらぼうに言った。


「電車、止まってたんだろ。ニュースでやってた」 「うん。雪で、三時間くらい」 「……そうか。腹、減ったろ」


 祖父が顎で指した先、ストーブの上で薬缶(やかん)がシュンシュンと湯気を立てていた。その横には、アルミホイルに包まれたものがある。  焼きおにぎりだ。  焦げた味噌の香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。  いつもなら「夜遅くに炭水化物は食べない」と断るところだが、今日の私は素直に炬燵に入り、その包みを開けた。  まだ熱い。  一口齧る。表面はカリッとしていて、中はふっくらと甘い。味噌の塩気が、冷え切った体に染み渡っていく。


「……じいちゃん」 「あん?」 「これ、見てほしいんだけど」


 私は鞄からスケッチブックを取り出した。  今日、車内で描いた絵だ。  雪原に立つ一本の木と、それを見つめるトメさんの後ろ姿。  祖父に見せるのは怖かった。「こんな落書き」と一蹴されるかもしれない。今まで私の夢を否定し続けてきた人だ。


 祖父は面倒くさそうに老眼鏡をかけ、スケッチブックを受け取った。  ページをめくる音が、静かな部屋に響く。  祖父の手が、止まった。


「……こりゃあ、一本松(いっぽんまつ)か」 「うん。トメさんが教えてくれた。昔、バス停だったって」


 祖父は何も言わず、じっとその絵を見つめていた。  その節くれ立った指先が、描かれた木の幹をそっと撫でる。  やがて、ぽつりと呟いた。


「懐かしいな。わしも若い頃、ばあさんとここでバスを待ったもんだ」 「え?」 「この木はな、この辺の人間にとっちゃあ、ただの木じゃねえんだ。みんなの思い出が詰まった、へそみたいなもんだ」


 祖父は眼鏡越しに私を見た。その目は、いつもの厳しさではなく、どこか誇らしげに細められていた。


「……いい絵だ。寒さが伝わってくるが、不思議と寒くねえ」 「え……」 「お前が毎日見てる景色は、こういう色をしてるのか」


 喉の奥が熱くなった。  「飯が食えるか」と否定された時、私は祖父が芸術なんて分からない人間だと思い込んでいた。  でも違った。  祖父は、私が描く「表面的なデザイン」に、私の心が乗っていないことを見抜いていたのかもしれない。  そして今、私が初めてこの土地と向き合い、心を通わせて描いた線には、ちゃんと反応してくれた。


「……ありがとう」


 私は小さく呟いた。  祖父は「ふん」と鼻を鳴らし、スケッチブックを閉じて私に返した。


「受かるといいな、東京」 「……うん」


 それだけの会話だった。  けれど、私の中で何かが確実に解けた気がした。  今まで「出ていくため」の勉強だった受験が、「ここで得たものを形にするため」の挑戦に変わった瞬間だった。


 その夜、私は久しぶりにイヤホンをせずに眠りについた。  屋根に積もる雪の音が、心地よい子守唄のように聞こえた。

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