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秒速11メートルの額縁  作者: と゚わん


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5/7

白銀の静寂

世界から、色が消え失せていた。  二月。天霧線(あまぎりせん)の沿線は、数年に一度という大雪に見舞われた。  窓の外は、上も下も区別がつかないほどの白一色。鉛色の空から、音もなく雪片が降り注いでいる。


 ガタン、という鈍い衝撃と共に、列車が止まった。  駅ではない。見渡す限りの雪原のど真ん中だ。


『えー、お客さまにお知らせいたします』


 スピーカーから、運転士の申し訳なさそうな声が流れる。


『ただいま、前方の線路除雪のため、一時停車いたします。運転再開まで、しばらく時間がかかる見込みです』


 車内に、小さなため息が波紋のように広がった。  乗客はまばらだ。私を含めて五、六人。  私は舌打ちをして、スマホを取り出した。受験直前の貴重な時間を、こんな雪の吹き溜まりで浪費するなんて。  だが、画面右上のバッテリー表示を見て、私は息を呑んだ。  残り1%。  寒さのせいだろうか、充電の減りが異常に早い。


「あっ」


 モバイルバッテリーを探そうと鞄に手を伸ばした瞬間、画面がフツリと暗転した。  ブラックアウト。  黒い鏡に戻った画面に、私の情けない顔が映る。  同時に、耳元のイヤホンからも音楽が消えた。  電子の壁が消滅し、私は無防備な状態で、この閉鎖空間に放り出された。


 シーン、という音が聞こえてきそうなほどの静寂。  いや、違う。音はある。  ヒューッ、という風の音。窓ガラスがカタカタと震える音。そして、足元のヒーターから漂う、鼻をつく灯油の匂い。  普段なら「ノイズ」として切り捨てていたそれらが、圧倒的な質量を持って押し寄せてくる。


「……降り積もるねえ」


 独り言のような、(しゃが)れた声がした。  通路を挟んだ向かい側。例によって、梅原(うめはら)トメさんが座っている。  彼女は窓ガラスの曇りを手袋で拭い、じっと外を見ていた。


「湊ちゃん。あそこ、見えるかい?」


 トメさんが指差したのは、雪原の中にポツンと立つ、一本の大きな木だった。  葉を落とし、黒々とした枝を雪空に突き刺している。寒々しい光景だ。


「……ただの枯れ木じゃないですか」 「今はね。でも、あそこは昔、この辺で一番温かい場所だったんだよ」


 トメさんは目を細めた。その横顔は、いつものお節介な近所のお婆さんではなく、どこか遠い時間を旅している少女のようだった。


「この路線ができる前、あそこはバスの停留所だったんだ。私の旦那……死んだ爺さんがな、あの大雪の日に、あの木の下で待っててくれたんだよ。『寒くねえか』って、自分のマフラーを私に巻いてくれてな」


 私は黙って、その木を見た。  ただの植物の残骸だと思っていた黒いシルエット。  だが、トメさんの言葉を聞いた瞬間、その木の下に、雪を避けて身を寄せ合う二人の若い男女の幻影が見えた気がした。  厳しい冬の寒さの中で、そこだけ体温があった。    ――君の絵には、温度がないんだよ。


 夏に講師から言われた言葉が、脳裏でリフレインする。  そうだ。私は今まで、表面的な形と色しか見ていなかった。  「何もない田舎」なんて嘘だ。  この雪の下には土があり、誰かが耕した歴史があり、あの木には誰かの人生のクライマックスが刻まれている。  風景とは、ただの物理現象じゃない。そこに生きた人々の「記憶の集積」なんだ。


 ドクン、と心臓が跳ねた。  描きたい。  今、この景色を。この静寂を。そして、窓の外を見つめるトメさんの、皺だらけだが美しい横顔を。  猛烈な衝動が突き上げてくる。


 私は鞄からスケッチブックをひったくった。  鉛筆を握る。4Bの柔らかい芯。  スマホはもう動かない。検索して「正解」の構図を探すことはできない。  頼れるのは、自分の目と、指先の感覚だけ。


 カリッ、カリカリ……。


 静止した車内に、鉛筆が紙を擦る音だけが響き渡る。  迷いはなかった。  窓枠を額縁に見立て、雪の白の余白を生かし、黒い木を配置する。その手前に、トメさんの丸まった背中を描く。  手がかじかむほどの寒さなのに、私の体の中はカッカと熱かった。    これが、リアリティだ。  私がずっと無視して、耳を塞いで遠ざけてきた、この土地の体温だ。


 どれくらいの時間が経っただろうか。  紙の上には、私の知らなかった「故郷」が浮かび上がっていた。  今まで描いてきたどんなスタイリッシュなデザインよりも、それは泥臭く、そして温かかった。


『……お待たせいたしました。除雪が完了しました。運転を再開いたします』


 アナウンスと共に、エンジンが唸りを上げて息を吹き返す。  ガクン、と車体が揺れた。  私は大きく息を吐き、鉛筆を置いた。  窓の外では、あの木がゆっくりと後ろへ流れていく。  私は心の中で、深く頭を下げた。

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