白銀の静寂
世界から、色が消え失せていた。 二月。天霧線の沿線は、数年に一度という大雪に見舞われた。 窓の外は、上も下も区別がつかないほどの白一色。鉛色の空から、音もなく雪片が降り注いでいる。
ガタン、という鈍い衝撃と共に、列車が止まった。 駅ではない。見渡す限りの雪原のど真ん中だ。
『えー、お客さまにお知らせいたします』
スピーカーから、運転士の申し訳なさそうな声が流れる。
『ただいま、前方の線路除雪のため、一時停車いたします。運転再開まで、しばらく時間がかかる見込みです』
車内に、小さなため息が波紋のように広がった。 乗客はまばらだ。私を含めて五、六人。 私は舌打ちをして、スマホを取り出した。受験直前の貴重な時間を、こんな雪の吹き溜まりで浪費するなんて。 だが、画面右上のバッテリー表示を見て、私は息を呑んだ。 残り1%。 寒さのせいだろうか、充電の減りが異常に早い。
「あっ」
モバイルバッテリーを探そうと鞄に手を伸ばした瞬間、画面がフツリと暗転した。 ブラックアウト。 黒い鏡に戻った画面に、私の情けない顔が映る。 同時に、耳元のイヤホンからも音楽が消えた。 電子の壁が消滅し、私は無防備な状態で、この閉鎖空間に放り出された。
シーン、という音が聞こえてきそうなほどの静寂。 いや、違う。音はある。 ヒューッ、という風の音。窓ガラスがカタカタと震える音。そして、足元のヒーターから漂う、鼻をつく灯油の匂い。 普段なら「ノイズ」として切り捨てていたそれらが、圧倒的な質量を持って押し寄せてくる。
「……降り積もるねえ」
独り言のような、嗄れた声がした。 通路を挟んだ向かい側。例によって、梅原トメさんが座っている。 彼女は窓ガラスの曇りを手袋で拭い、じっと外を見ていた。
「湊ちゃん。あそこ、見えるかい?」
トメさんが指差したのは、雪原の中にポツンと立つ、一本の大きな木だった。 葉を落とし、黒々とした枝を雪空に突き刺している。寒々しい光景だ。
「……ただの枯れ木じゃないですか」 「今はね。でも、あそこは昔、この辺で一番温かい場所だったんだよ」
トメさんは目を細めた。その横顔は、いつものお節介な近所のお婆さんではなく、どこか遠い時間を旅している少女のようだった。
「この路線ができる前、あそこはバスの停留所だったんだ。私の旦那……死んだ爺さんがな、あの大雪の日に、あの木の下で待っててくれたんだよ。『寒くねえか』って、自分のマフラーを私に巻いてくれてな」
私は黙って、その木を見た。 ただの植物の残骸だと思っていた黒いシルエット。 だが、トメさんの言葉を聞いた瞬間、その木の下に、雪を避けて身を寄せ合う二人の若い男女の幻影が見えた気がした。 厳しい冬の寒さの中で、そこだけ体温があった。 ――君の絵には、温度がないんだよ。
夏に講師から言われた言葉が、脳裏でリフレインする。 そうだ。私は今まで、表面的な形と色しか見ていなかった。 「何もない田舎」なんて嘘だ。 この雪の下には土があり、誰かが耕した歴史があり、あの木には誰かの人生のクライマックスが刻まれている。 風景とは、ただの物理現象じゃない。そこに生きた人々の「記憶の集積」なんだ。
ドクン、と心臓が跳ねた。 描きたい。 今、この景色を。この静寂を。そして、窓の外を見つめるトメさんの、皺だらけだが美しい横顔を。 猛烈な衝動が突き上げてくる。
私は鞄からスケッチブックをひったくった。 鉛筆を握る。4Bの柔らかい芯。 スマホはもう動かない。検索して「正解」の構図を探すことはできない。 頼れるのは、自分の目と、指先の感覚だけ。
カリッ、カリカリ……。
静止した車内に、鉛筆が紙を擦る音だけが響き渡る。 迷いはなかった。 窓枠を額縁に見立て、雪の白の余白を生かし、黒い木を配置する。その手前に、トメさんの丸まった背中を描く。 手がかじかむほどの寒さなのに、私の体の中はカッカと熱かった。 これが、リアリティだ。 私がずっと無視して、耳を塞いで遠ざけてきた、この土地の体温だ。
どれくらいの時間が経っただろうか。 紙の上には、私の知らなかった「故郷」が浮かび上がっていた。 今まで描いてきたどんなスタイリッシュなデザインよりも、それは泥臭く、そして温かかった。
『……お待たせいたしました。除雪が完了しました。運転を再開いたします』
アナウンスと共に、エンジンが唸りを上げて息を吹き返す。 ガクン、と車体が揺れた。 私は大きく息を吐き、鉛筆を置いた。 窓の外では、あの木がゆっくりと後ろへ流れていく。 私は心の中で、深く頭を下げた。
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