他人のレンズ
車窓を埋め尽くしていた暴力的な緑は、いつの間にか色あせ、乾いた茶色へと変わっていた。 十月。天霧線の沿線では稲刈りが終わり、田んぼには切り株だけが整然と並んでいる。 日が落ちるのが早くなった。午後五時を過ぎれば、もう世界は茜色と群青のグラデーションに沈んでいく。
その日の車内は、奇妙なほど静かだった。 部活帰りの高校生もおらず、あの騒がしいトメさんの姿もない。 ガタン、ゴトン。 乾いた走行音だけが響くボックス席で、私はいつものようにイヤホンをしていた。だが、音楽は流していない。 夏に突きつけられた「リアリティがない」という言葉が、まだ喉の奥に刺さった小骨のように取れずにいたからだ。 絵を描く気力も起きず、ただぼんやりと、ガラスに映る自分の冴えない顔と、その後ろを流れる枯れた風景を眺めていた。
「……すごいな」
ふと、低い声が聞こえた。 独り言にしては明瞭で、誰かに向けるにしては独白めいた声。 私は顔を上げた。 通路を挟んだ反対側のボックス席に、男が座っていた。四十代くらいだろうか。使い込まれたフィールドジャケットに、無精髭。そして首からは、大きな一眼レフカメラを提げている。 地元の人ではない。一目でわかる「よそ者」の空気。 男は窓にへばりつくようにして、外を凝視していた。
「まるでゴッホだ」
ゴッホ? 男の口から出た画家の名前に、私は思わず反応して、彼が見ている方向――つまり私の背中側の窓の外を見た。 そこにあるのは、ただの枯れ野原だ。 収穫を終えた殺風景な田んぼと、線路脇に生い茂る薄。それらが夕日を浴びて、茶色く沈んでいるだけ。 どこがゴッホなのだろう。私は眉をひそめた。
「……何が、すごいんですか」
気づけば、私は声をかけていた。普段なら絶対に関わらない「他人」に対して、美大志望としてのプライドが勝手に反応してしまったのだ。 男は驚いたようにこちらを振り向き、それから人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ああ、ごめん。うるさかったかな」 「いえ。……ただ、何もない場所だなって思ってたので」 「何もない?」
男は不思議そうに瞬きをすると、カメラを持ち上げた。 カシャリ。 重厚なシャッター音が車内に響く。男は液晶画面を確認すると、「ちょっと見てごらん」とカメラを私の方へ差し出した。
私は身を乗り出し、小さなモニターを覗き込んだ。 息が、止まった。
そこに写っていたのは、私が知っている「枯れ野原」ではなかった。 強烈な西日が、無数に並ぶ稲の切り株の断面を黄金色に輝かせていた。逆光に透かされた薄の穂は、まるで銀色の炎のように揺らめき、背景の山並みは深い紫色の影となって画面を引き締めている。 光と影。そのコントラストが、ただの田舎の風景を、荘厳な一枚の絵画に変えていた。 確かに、ゴッホの『夕暮れの種まく人』に通じる、色彩のうねりがあった。
「……これ、ここの景色ですか」 「今、君が見ていた景色だよ」
男は穏やかに言った。
「肉眼だと見慣れすぎちゃってるのかもね。でも、レンズを通して光を切り取ると、この土地はとんでもない色を持ってる。東京のビル街じゃ、この光の抜け感は撮れないよ」
東京じゃ撮れない。 その言葉は、私の価値観を根底から揺さぶった。 私は慌てて、自分の横の窓を見た。 さっきまで「汚れた茶色」だと思っていた風景。けれど、男の写真を見た後だと、西日の角度も、影の落ち方も、まったく違って見えた。 ただの枯草だと思っていたものが、光の粒を含んで輝いている。
(……俺は、何を見ていたんだ?)
デザインの勉強をしていると自負しながら、私は「田舎だから」というフィルターで、目の前の色彩を勝手に灰色に塗りつぶしていただけなんじゃないか。 男はカメラを首に戻し、満足そうにシートに深く座り直した。
「いいものを見せてもらった。ありがとう」
礼を言うべきなのは私の方だ。 けれど、動揺のあまり言葉が出てこない。 私は逃げるように視線を自分の手元に落とした。膝の上に置いた手の中で、握りしめたスマホの画面が黒く光っている。 その黒い画面に反射した自分の顔は、さっきよりも少しだけ、強張りが取れている気がした。
列車は長い汽笛を鳴らし、夕闇が迫る平野をひた走る。 ガタン、ゴトン。 そのリズムに合わせて、窓枠の中で黄金色の薄が揺れていた。 私はその日、初めてイヤホンを外したまま、終点まで窓の外を眺め続けた。
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