体温のないデッサン
季節は巡り、車窓の風景は淡いピンク色から、暴力的なまでの深緑へと塗り替えられていた。 八月。天霧線の車内は、逃げ場のない蒸し風呂と化していた。
非冷房というわけではない。天井の吹き出し口からは、確かに冷気が出ている。しかし、強烈な西日とエンジンの放熱、そして開け放たれた窓から入ってくる熱風が、文明の利器の力を完全に無効化していたのだ。 ジリジリと肌を焼く感覚。 私は額に滲む汗を拭いもせず、膝の上に置いたスケッチブックを睨みつけていた。
そこには、東京の御茶ノ水にある美術予備校の夏期講習で描いた、平面構成の課題作品が挟まっている。 テーマは『都市』。 私は自信を持って描いたはずだった。グレーを基調とした無機質なビル群、幾何学模様で表現した交差点、クールで洗練された都会のイメージ。 田舎の泥臭さなど微塵も感じさせない、スタイリッシュな画面構成。
だが、講評会で講師が放った言葉は、冷房の効いた教室よりも冷ややかだった。
『……綺麗だね。テクニックもある。でもさ』
講師は私の絵を指先で軽く弾いた。
『君の絵には、温度がないんだよ。「かっこいい東京」のポスターを模写したみたいだ。君自身のリアリティはどこにあるの?』
リアリティ。 そんなもの、私が一番捨て去りたいものだ。 私は反論したかった。「洗練されていることの何が悪いんですか」と。けれど、隣に並べられた他の生徒の作品を見て、言葉が喉に詰まった。 その絵は、決して上手くはなかった。しかし、雑踏の熱気や、路地の湿った匂いが漂ってくるような、生々しい迫力があった。 それに比べて私の絵は、まるでプラスチックでできた模型のように、つるりとして空虚だった。
(……クソッ)
ガタンッ、と車両が大きく揺れ、私は現実に引き戻された。 スケッチブックを乱暴に閉じる。 窓の外では、成長しきった稲が風に揺れ、見渡す限りの緑の海を作っていた。 生命力に溢れた、濃く、湿った緑色。 東京の画材屋で買ったアクリルガッシュには、こんな色は存在しない。もっと野暮ったくて、しぶとくて、強烈な色だ。
蝉時雨が、ディーゼル音に負けじと降り注いでくる。 踏切の警報音が、熱で歪んだ空気の中を通り過ぎていく。
「……暑い」
独り言が漏れた。 汗でシャツが背中に張り付く不快感。 東京の予備校の、あの無臭で涼しい空間が恋しかった。あそこにいれば、私は何者かになれる気がしていた。 けれど現実は、才能のなさを突きつけられ、またこの古びた気動車で田舎へ護送されている。
ふと、視線の先で何かが動いた。 少し離れた席で、部活帰りらしき高校生たちが騒いでいる。汗だくのユニフォーム姿で、ペットボトルのスポーツドリンクを回し飲みしている。 彼らの顔は日焼けして真っ黒で、笑い声は遠慮がなく、生き生きとしていた。 講師の言葉が脳裏をよぎる。
『君自身のリアリティ』
この暑苦しさ、汗の匂い、エンジンの振動、窓の外の圧倒的な緑。 これが私のリアリティだというのか? こんな、スマートさの欠片もない世界が?
私は吐き捨てるように息を吐き、再びノイズキャンセリングイヤホンを耳に押し込んだ。 再生ボタンを押す。 しかし、バッテリー残量が少なくなっていたせいか、プツプツとノイズが混じり、音楽は途切れがちだった。 遮断しきれない蝉の声とレールの響きが、耳の隙間から侵入してくる。
私は逃げるように目を閉じたが、瞼の裏にはまだ、あの「体温のない」自分の絵が焼き付いていた。 列車は陽炎の立つ線路を、嘲笑うかのようにゆっくりと進んでいく。 月見野駅までは、まだ三駅もあった。
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