圏外のないお節介
私のささやかな抵抗――ノイズキャンセリングによる結界は、下里駅であっけなく破られた。 プシュー、というドアの開閉音と共に、強烈な生活臭が車内になだれ込んでくる。 湿布薬のスーッとした匂いと、漬物の酸っぱい香り。 私は反射的に眉をひそめ、イヤホンの音量を上げようとした。だが、それよりも早く、視界の端に見慣れた小柄なシルエットが飛び込んでくる。
紫色のパンチパーマに、ヒョウ柄のブラウス。背中には、体と同じくらいの大きさがありそうな風呂敷包み。 近所に住む、梅原トメさんだ。 よりによって、車両には他にも空席があるというのに、彼女は私の座るボックス席へと一直線に向かってきた。
「あら、湊ちゃんじゃねえけ!」
ドサッ、と向かいの席に荷物が置かれる。 同時に、私の膝がペシッと叩かれた。物理的な接触。これはもう、無視を決め込むことは不可能だ。 私は溜息を噛み殺し、イヤホンを片方だけ外した。
「……おはようございます、トメさん」 「おはよう! 今日も学校かい? えらいねえ」
トメさんは日焼けした顔をくしゃくしゃにして笑うと、ズイッと身を乗り出してきた。膝と膝が触れそうな距離。この路線のボックス席は、他人との距離感を保つにはあまりに狭すぎる。
「そういや、聞いたよ。あんた、東京の美大に行くんだって?」
私はギクリとして顔を上げた。 進路のことは、まだ家族と担任にしか話していないはずだ。
「……誰に聞いたんですか」 「誰って、あんたのじいちゃんだよ。『うちの孫は絵描きになるんだ』って、昨日の寄り合いで自慢してたわ」
自慢、だって? 昨日の夜は「飯が食えるか」と苦虫を噛み潰したような顔をしていたくせに、外ではそんなことを言っているのか。 祖父の矛盾した態度への苛立ちと、この集落特有の「情報伝達速度」の速さへの恐怖で、頭が痛くなってくる。 ここにはプライバシーなんてものは存在しない。誰かの噂は、光ファイバーよりも速く、井戸端会議というネットワークを通じて拡散されるのだ。
「まだ受かったわけじゃないんで。……あんまり広めないでください」 「なーに言ってんだ。めでたいことじゃねえか」
トメさんはガサゴソと風呂敷包みを漁り始めた。 ビニール袋の擦れる音が、妙に神経に障る。
「ほれ、これ食いな」
差し出されたのは、少しひしゃげたアンパンだった。 地元のスーパーの特売シールが貼られたままだ。
「朝ごはんは食べたので、大丈夫です」 「遠慮すんなって。勉強すっと腹が減るだろ。頭使うには甘いもんが一番だ」 「いや、本当に……」 「いいから、いいから!」
半ば強引に、アンパンを私の手の上に押し付けてくる。 その手は節くれ立っていて、土と野菜の匂いがした。 拒絶するタイミングを失い、私は仕方なくそのパンを受け取った。ラップ越しに伝わる生温かさが、なんだか妙に重たい。
「東京に行ったら、こんなうめえパンも食えなくなるかもしんねえからな。しっかり味わっときな」
トメさんは満足そうに頷くと、ようやく背もたれに体を預けた。 東京にはもっと美味しいパン屋が星の数ほどあるし、これと同じメーカーのパンだって売っている。 けれど、それを指摘する気力も起きなかった。
(……これだから、嫌なんだ)
この人たちには悪気がない。それが一番タチが悪い。 「善意」という名の暴力で、土足でこちらの領域に踏み込んでくる。 私は小さく会釈をして、再びイヤホンを耳にねじ込んだ。 音楽のボリュームを上げる。洗練されたシンセサイザーの音が、トメさんの声を、生活臭を、そしてアンパンの存在感を、必死にかき消そうとする。
手の中のアンパンを、私は鞄の奥底へと押し込んだ。 窓の外では、また単調な田園風景が流れている。 この景色も、目の前のお節介な老婆も、すべて過去のものにするために。 私はデザインの参考書を広げ、視界を文字の羅列だけで埋め尽くした。
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