辺境の生活②
扉が開いた瞬間、冷たい風が頬を打つ。雪の匂いが混じる空気の向こう、霧の中に灰色の石の城が見えた。
まるで霧そのものが形を取ったように静かで、孤独な城だ。空の色と同じ鈍い灰に沈み、塔の先端は雲の中に溶け込んでいる。
王都の城のような華やかさはなく、代わりにどこか厳粛で、沈黙そのものが形をとったような威容を放っていた。
御者が扉を開け、エミリアは外套の裾を押さえながらそっと地面に降り立った。
見上げれば古城の門は黒鉄の格子で覆われ、ところどころ錆びている。かつての栄華の名残を留めながらも、長い孤独がその上に降り積もっていた。
門番の姿はない。代わりにどこからかカラスの鳴き声が響き、それが森の奥へ消えていく。
雪を踏みしめて前へ進む。足跡が白の上に淡く刻まれ、すぐに風がそれを消していった。
その儚さが今の自分の立場のように思えて、思わず手をぎゅっと握る。
やがて重い扉が、内側から軋む音を立てて開いた。現れたのは、ひとりの老執事だった。
背筋をまっすぐに伸ばし、灰色の髪をきちんと撫でつけている。その姿には、古き時代の忠誠と誇りがまだ息づいていた。
「エミリア・トレンテス様でいらっしゃいますね」
「はい。王命により、本日よりこちらで……」
「お待ちしておりました。殿下はお部屋にてお待ちです。どうぞ中へ」
殿下――〝呪われた王子〟レオナール・アルタミラのことだ。
胸に微かな緊張が走る。恐れとは違う。これから出会う人の運命をどこかでずっと知っていたような……。なぜか、そんな予感に似ていた。
古城の中は外の寒さとは対照的に、暖かさが満ちていた。
廊下には古い絵画と燭台が並び、炎の揺らめきが壁に長い影を落としている。その灯はどこか寂しく、城そのものが息をひそめているかのよう。
「殿下は、どのようなご様子なのでしょうか」
エミリアが問うと、老執事はわずかに目を伏せた。
「日中はお部屋で過ごされることが多いのですが、領内の見回りなどもされています」
「……では、夜は?」
思いきって尋ねる。
「夜は……」
そう言って執事は躊躇うように口を閉ざした。
昼と夜で姿を変えるという噂を思い出し、エミリアは唇をぐっと引き結んだ。
長い廊下の先、重厚な扉の前で足を止める。
「こちらが殿下のお部屋でございます」
執事が扉を押し開けると、暖炉の火が部屋を照らした。想像していたよりも質素だ。
広さこそあるが、家具は必要最低限。机の上には書物と羽根ペンが整然と並び、暖炉の火だけが静かに音を立てている。
暖炉の前に、背を向けて椅子に腰かける影がひとつ。その影は緩やかに肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。
――白髪の老人だ。
その姿を見た瞬間、エミリアは息を止めた。
顔には深い皺が刻まれているが、瞳には静かな光を宿している。その目は、年老いた肉体とは釣り合わぬほど澄んでいた。
ルーベンとは二つ離れた弟と聞くから、本来の年齢は二十一歳だ。
「お初にお目にかかります。私は、陛下の命により――」
「聞いている。王都を追われた元妃だな」
膝を折って挨拶をしたが、彼が遮る。
胸の鼓動が早まった。自分でも理由はわからないが、彼の声が思いのほか穏やかだったからかもしれない。
「……はい。正式に離縁状をいただきました」
「そうか」
彼の反応に、小さくうなずく。〝追われた〟という響きが鋭く胸に刺さった。
火の爆ぜる音だけが部屋を満たす。
長い沈黙のあと、老王子は静かに問いかけた。
「怯えてはいないのか。呪われた王子のもとに嫁ぐことを」
怯えていない、と言い切るには少し勇気がいった。
しかし彼の目には邪悪なものはなにひとつない。むしろ清らかな光が見えた気がした。
「恐ろしくは、ありません」
「なぜだ?」
「殿下の目が……嘘を言わない方のものだからです」
その瞬間、彼の瞳がかすかに揺れた。
暖炉の光がその表情を照らす。老いの陰の奥に、ほんのわずかに人間らしい痛みの色が滲んでいた。




