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辺境の生活①

 馬車が王都を離れてから、どれほどの時が過ぎただろう。

 石畳の道がいつしか土の道へ変わり、やがて両脇を覆う森が深くなっていった。

 窓の外には、雪をかぶった針葉樹の森が果てしなく続いている。吐く息は白く、肌に触れる空気は刺すように冷たい。

 王都の陽光に慣れた身には、この寂寞とした風景はまるで異国のよう。しかし、エミリアは不思議と恐れを抱かなかった。むしろ胸の奥が少しずつ軽くなっていく。


(私はもう、何者でもないんだわ)


 国の安寧を願って祈りを捧げる重責は解かれた。誰かの妻としてではなく、聖女としてでもなく、今ここにいるのはただのエミリアだ。

 それだけで、こんなにも自由に感じられるとは思わなかった。何者でもなくなることが不安だったのが嘘のよう。

 ただ、気がかりもある。


(神殿に仕える人たちの祈りによって、遠い昔に張られた結界は守られてきたけど、これからどうなるんだろう)


 モルテン王国は、四方を魔獣が住むとされる土地に囲まれた国である。他国からの侵略がない反面、魔獣の脅威に備えなくてはならない。

 ルーベンは神殿の加護も受けないと言っていたが、果たしてその結界の効力は永続的なものなのか。エミリアにはわからない。

 今向かっているミカエル領はモルテン王国の最北にあり、すぐ隣には魔獣たちが住んでいる。


 馬車の揺れに身を任せながら指先を膝の上で組む。ふと、薄布の袖から見えた手のひらには、淡く光る魔法陣の痕が残っていた。

 それは聖女の証――生まれながらに微弱な治癒の力を持つ印である。ルーベンだった男が、かつてその力を『中途半端』と笑ったことを思い出す。

 彼はいつも、何気ない顔で言った。


『癒しの力など、戦場では役に立たない。聖女ならばもっと神々しい奇跡でも起こしてみせろ』


 その言葉は嘲りというよりも、失望に近かった。

 しかしエミリアにとって、それはなによりも鋭い刃だった。奇跡を信じて祈ることこそが、神への道だと信じていたからだ。

 だが、夫である王太子には〝祈り〟よりも〝力〟が求められた。

 王太子妃としてふさわしい姿、神々の寵愛を証明するための派手な祝福の光。それを放てなかった自分は、ただの飾りに過ぎなかったのだ。

 あのときルーベンの目に浮かんでいたのは、蔑みでも怒りでもない。興味を失った者の目だった。

 馬車が小さな橋を渡るたび、木の車輪が軋む。その響きが、遠い日々の記憶を削り取るように規則的に続いていく。

 小さく息をつき、背もたれに身を預けた。


(もう、思い出すのはやめましょう)


 過去は雪の下に埋めればいい。新しい大地でもう一度祈ることができるのなら、それだけで十分だ。

 そう思いながら、ふと窓の外に視線を向ける。

 遠く白い霧の向こうに、黒い尖塔が見えた。空に爪を立てるような孤高の城。エミリアの新しい運命が待つ場所だ。


(どんなに弱くても、誰かを癒やすことができるのなら……)


 そんな思いが、冷えた胸の奥で静かに灯る。

 窓の外の森がさらに濃くなり、陽光が木々の枝に遮られはじめた頃、御者が声を上げた。


「まもなく、ミカエル領に入ります」


 馬のいななきとともに、道がゆるやかに傾斜を下る。

 遠くから吹きつける風が、雪を舞い上げた。

 ミカエル領、通称、封印の谷。人の立ち入りを禁じられた土地は、呪われた王子が隠棲する地でもある。

 王都では幾度か噂を耳にした。


『彼はもはや人の姿ではない』

『昼は老人、夜は魔物になる』


 どれも眉唾の話に思えた。だが、誰ひとりとしてその真偽をたしかめた者はいない。

 エミリアは膝の上で手を握りしめた。胸を締めつけられるような感じがしたが、恐怖なのか、それともべつのなにかなのか自分でもわからない。ただ、心の奥で静かに揺れるその気配が、自分を新しい運命へ導いているように思えた。

 やがて馬車が大きく揺れ、速度を落とした。白い霧があたりを覆い、世界の輪郭がぼやけていく。

 御者が馬を止め、低い声で告げる。


「到着しました」


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