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過去の代償③

 

 応接室の扉をカーリンが開けると、ルーベンは背を向けて立っていた。深い青の外套の裾を払い、窓の外に視線を向けている。


「陛下……」


 エミリアは静かに頭を下げる。

 ルーベンは振り向き、目を見開いた。


「……エミリア、お前の輝きは変わらぬな」


 声の奥に、深い後悔と空虚が混じっているのは気のせいか。

 エミリアはゆっくりと顔を上げ、形ばかりの微笑を浮かべた。


「陛下にそのように言っていただけるとは、光栄です」

「私が、どれほど愚かだったかを思い知らされる」


 ルーベンの声がわずかに震える。指先が外套の裾を強く握りしめているのが見えた。


「どうか、少し話をさせてほしい」


 その言葉に、エミリアは小さく息を呑む。ルーベンが、なぜこの時を選んで来たのか、すぐに悟った。

 エリオットにレオナールを伴って結界の視察へ行くよう命じたのはルーベンである。つまり、レオナールがこの城にいないときを見計らってここへ来たのだ。

 だからといって、国王をこの場で追い返すわけにはいかない。


「承知しました。……では、お掛けください」


 エミリアは静かに一礼し、ソファを指し示した。

 ルーベンはゆっくりと腰を下ろし、顔を両手で覆う。その姿は王ではなく、罪を負ったひとりの男のように見えた。

 カーリンがお茶をテーブルに置いて下がる。

 静まり返った応接室に、時計の針の音だけが響く。エミリアは向かいの椅子に腰を下ろすルーベンの表情をじっと見つめていた。

 かつて、威厳と自信に満ちていたはずの王。その面影はある。だが今、そこにあるのは焦燥と打算の影だった。


「……私は、お前を追放したことを悔いている」


 唐突にそう切り出されたとき、エミリアはわずかに眉をひそめた。


「陛下がそのようなことを口にされるとは思いませんでした」

「私は愚かだったのだ。バネッサの甘言を信じ、お前を遠ざけた。だが、お前を失ってから王都の光は薄れていくいっぽうだ。瘴気は日々濃くなり、結界も弱まりつつある。……すべては私の過ちだ」


 エミリアは静かに俯き、そして顔を上げた。


「そう感じておられるのなら、まずなすべきことがあるのでは?」


 ルーベンが怪訝そうに目を細める。

 その視線を真正面から受け止め、エミリアはきっぱりと言った。


「今、モルテン王国に瘴気が満ち始めているのは、神殿の加護を断ち切ったからではないのですか? その責任を、陛下はどう取るおつもりですか?」


 空気が凍った。

 ルーベンの指が、肘掛けをぎゅっと掴む。


「……だからこそだ」


 やがて、押し殺すような声で言った。


「だからこそ、聖女であるお前を再び妃として迎えたい。お前が王に仕え、再び神の加護を取り戻せば、王国は救われる」

「救われるのは陛下ご自身でしょう?」


 エミリアの声は低いが澄んでいた。

 彼は自分の罪を悔いているのではない。孤独と不安を埋めるために、再びエミリアを利用しようとしているだけだ。


「それに、私の力は弱すぎるとおっしゃったのは陛下です。無能だともおっしゃっていました」

「あの頃の私は愚かだったのだ。聖獣のフェンリルまで手懐けるほどの力があるとは知らなかった」


 ルーベンは拳を握りしめる。


(この人は、私自身ではなく〝力〟が欲しいだけなのだわ)


 胸の奥に、冷たいものが広がっていく。愛も悔いもない、ただ権力のために言葉を操る男を前に、かつて感じた敬意の欠片さえも霧のように消えていった。


「陛下の言葉は、民ではなく、王座を守りたいだけにしか聞こえません」


 ルーベンの頬がひくりと震える。


「……お前はわかっていない。私は王だ。王の命に逆らえる者など、この国にはいない」

「陛下」


 エミリアの声が、静かに鋭くなる。


「私は、すでにレオナール様の妻です」


 その瞬間、ルーベンの表情が凍りついた。


「だからどうだというのだ」

「妃にはなれません。私自身、そうしたいとも思いません」

「私を誰だと思っている。モルテン王国の王だぞ! そんなもの、私が認めなければ成り立たぬだろう。王の命に逆らえる者など、この国におるまい」


 ルーベンが声を荒げる。

 その傲慢さに、エミリアの中でなにかが静かに切れた。


「王の命で愛は縛れません。陛下がどんなに望まれても、私は戻りません」

「どうしてだ! あの男は呪われた身だぞ。老いた姿で、もう長くは生きられまい。それでもお前は、あの化け物のそばにいるというのか!」


 エミリアの瞳が鋭く光る。


「陛下、お言葉をお慎みください。レオナール様こそが私の支えです。王であろうと、誰にもその絆は壊せません」


 たとえ形式上の夫婦であっても、心はひとつだとエミリアは信じている。

 ルーベンは苛立ちを隠せず立ち上がり、机に手を叩きつけた。


「愚か者! あの呪われた男とともに生きるというのか! あれは……人の形をした化け物だ!」


 その拍子に、エミリアのケープに隠れていたシルバが飛び出る。大きな音を聞き、エミリアの危機と思ったのだろう。

 元の大きさに戻ったシルバがエミリアを庇うように立つ。低い唸り声をあげ、ルーベンを睨んだ。


「……っく」


 ルーベンの喉の奥から声ともつかない音が漏れる。右腕をかざして身構えた。


「シルバ、大丈夫よ」


 その背を撫で、落ち着かせる。


「今、陛下が化け物と呼んだ方は、あなたよりもずっと人として正しい生き方をされています」


 エミリアの声は毅然としていた。むしろ、すべてを見通すように穏やかですらある。

 ルーベンはしばし息を詰まらせ、やがて苦々しく笑った。


「やはりお前は変わらぬな。いつも私の言葉よりべつの人間を信じる」

「そうさせたのは、ほかでもなく陛下ご自身だということは忘れないでください」


 淡々としたエミリアの言葉にルーベンが眉根を寄せる。

 いつか妃として見てくれるだろうという期待をことごとく裏切ったのはルーベンだ。

 エミリアは立ち上がり、深く一礼した。


「陛下に追放されたおかげで、私はレオナール様に出会いました。この地で幸せに過ごしております。どうかもう私には構わないでください」


 ルーベンは返す言葉を失い、ただエミリアを茫然と見つめていた。


 


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