冷たい予感④
あのときの兄の瞳には、王としての威厳も責任もなく、ただ己の命を守ろうとする恐怖だけがあった。
「エリオットが魔法騎士団の団長であるなら、心配はいらないだろう」
「いや、あの夜のレオナールの戦闘を見て痛感したよ。私はまだまだだと」
エリオットは少し笑ったが、その瞳の奥にはなにかを伝えかねているような影があった。
「……それでも、あなたが王都にいたなら違っていたかもしれない。陛下も、そして王妃も」
そのひと言に、レオナールの指先がわずかに止まる。
そう考えたことなら何度もある。呪いにかからなければ、今の自分はどうなっていただろうかと。そのたびに胸の奥がひどく疼いたが、仮定と現実の狭間で揺らいだ心を、これまで誰にも語ったことはない。
エリオットは言葉を継がず、ただ静かに茶を置いた。
窓の外で、風が薔薇を揺らしている。
沈黙がひととき流れ、やがてレオナールは低く呟いた。
「もし私が王都にいたなら、もっと早く国は滅んでいたかもしれない」
レオナール自身、冗談とも諦念ともつかない声が出た。
エリオットがほんのわずかに微笑み、首を振る。
「いいや、あなたがどんな姿であろうと、私は信じている」
その言葉の余韻だけが、しばらくのあいだ部屋に残った。
「ところで、こうしてここへ来たのは昔話をしにきたわけではないのだろう?」
レオナールの問いに、エリオットの瞳に影が差した。
エリオットは一度目を伏せ、深く息を吐いた。
「さすがレオナール。王都では、なにかが少しずつ狂いはじめている気がするんだ」
その言葉は慎重に選ばれていた。
「城の周囲では瘴気の気配が再び強まっている。結界は修復されたはずなのに、まるで内側から蝕まれているようだと神殿の人間たちが囁いている。人々の心までもが、どこか落ち着かない。民の間では『祈っても神はもう応えない』『夜ごと、王宮の塔に〝影〟が立つ』などといった妙な噂が絶えない」
レオナールは黙ってその言葉を聞いていた。
「王妃殿下は?」
「……変わりはないように見えるが、近侍たちの間では妃殿下が夜ごと庭に姿を現すと噂しているのを何度か耳に。なにをしているのか誰も知らず、その姿はいきなりふっと消えてしまうらしく……」
エリオットは声を低く沈めて続けた。
「ただの噂なのかはわからないが」
レオナールは視線を窓の外に向けた。
遠くの山脈の向こうに、薄く王都の方角が霞んで見える。その奥で蠢くものはなんなのか。
「王都でなにかが起ころうとしているのかもしれないな」
その言葉にエリオットは目を見開き、そして小さくうなずいた。
「ああ。私もそう思う」
ふたりの間に再び沈黙が落ちた。
しかし今度のそれは、先ほどまでの懐かしい沈黙ではない。嵐の前の静けさといったらいいだろうか。そんな冷たい予感が、ふたりの間に舞い降りた。
そもそものはじまりは、神殿との繋がりを断ち切ったことによるものだろう。千年にわたって捧げてきた祈りを軽んじたから。
「今日ここへ来たのはほかでもない。私と一緒に行ってほしいところがあるんだ」
エリオットはそう言って、レオナールを真っすぐに見つめた。




