冷たい予感③
応接室には、初夏の風が静かに流れ込んでいた。磨かれた窓越しに、庭の薔薇が淡く揺れている。
その前に立っていた男が、レオナールの姿を見るなり笑みを浮かべた。白銀の装甲を脱いだエリオットは幼い頃の面影を残したまま、眼差しに力を宿している。
「殿下はご健在だった、と言ってもいいでしょうか」
呪いをかけられた相手にかける言葉として相応しいか、という迷いがあるのだろう現に今、レオナールは年老いた姿である。だが、その気遣いは不要だ。
「エリオット……」
レオナールは呟くように名前を呼んでからゆっくりと歩み寄り、骨ばった細い腕を回してがっちりと抱き合った。少年時代に交わした笑い声や稽古場の喧騒が一瞬で蘇る。
「お会いできてうれしいです、殿下」
「殿下はやめてくれ。昔のようにレオナールでいい」
しばらく互いの温もりをたしかめるようにしてから、ゆっくりと離れる。
そばに控えていたエミリアは、静かに頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、ブラン卿」
彼女の礼に、エリオットは驚いたように目を見開いてから、やわらかく微笑む。
「殿下の隣に、こうしておられるとは。先日は王都でも再びお姿を拝し、胸が熱くなりました」
「ありがとうございます。今はこの地で、穏やかに過ごしております」
エミリアがそう言うと、エリオットは深く頭を下げた。
「おふたりがともに過ごされていることは、王国にとっての救いです」
レオナールは、わずかに目を細めた。
その言葉の中に礼儀以上の感情が滲んでいるのを感じ取ったからだ。
「ありがとう、エリオット」
ふたりの間に言葉では届かぬ年月が流れた。
交わしたのは短い挨拶だけなのに、胸の奥では懐かしさと痛みがせめぎ合う。
あの頃、共に剣を振るい、夢を語った日々。それがたった十年で、こんなにも遠くなってしまうとは思いもしなかった。
エリオットの瞳には敬意と哀しみ、そして再び会えた喜びが同時に宿っているように見えた。
レオナールもまた、その視線の中に若き日の自分を見ている。失われた時が戻ってきたように思えた。
「おふたりで積もる話もあるでしょうから、私はこれで失礼します。どうぞごゆっくり」
そう言ってエミリアが退室するのと入れ違いに、カーリンがお茶を準備して入ってきた。テーブルに紅茶と茶菓子を置き、静かに出ていく。
ふたりは向かい合って椅子に腰を下ろした。
香り立つ茶の湯気が、老いたレオナールの指先を温める。
しばしの沈黙のあと、エリオットが笑みを浮かべた。
「昔と同じです、殿下――いや、レオナール」
「同じではないよ、この姿だからね」
「たしかに姿は違うが、内面から滲み出る気品は隠しきれていない」
「気品とは便利な言葉だな。老いも隠してくれるとは」
「隠すどころか、深めているよ」
エリオットは静かに茶を口にした。その仕草は、かつての少年の面影をわずかに残している。
「エリオットこそ立派になったじゃないか。騎士団長だと聞いたぞ」
「いや、まだまだ未熟だよ。レオナールとともに学んできたことを、ようやく少しずつ理解しはじめたところといったところかな」
その真摯な言葉に、レオナールは小さく目を伏せた。
長い時を経ても、こうして変わらず敬意を向けてくる男がいる。そのことが胸を揺さぶられた。
カップの縁から立ちのぼる湯気が、ゆらりと光を滲ませる。
「あれから王都の様子はどうだ?」
静けさを破るように、レオナールが問いかけた。
祝宴の席で現れた魔獣は討伐したが、あの日以降はどうなのか。カーリンの噂話によると、それ以前にも現れて被害が出ていたと聞いている。
エリオットの笑みに影が差す。
「平穏とは言えない。祝宴で現れた魔獣は、王都の結界が弱まりつつある証と見ていいだろう」
「やはりそうか」
レオナールは低く呟いた。思っていた通りの答えだった。
「陛下も、そのことに心を砕いておられる。ただ……」
「ただ?」
エリオットは一瞬、視線を伏せた。
「王都ではあなたの名が再び囁かれています。〝夜の王子〟が現れたと。瘴気を祓い、王都を救ったのは誰かと」
胸の奥がわずかに疼いた。忘れ去られたはずの名が、今になって甦る。それを名誉と呼んでいいものか否か。
レオナールはなにも言わず、ただ茶を口に運んだ。
「王と王妃はその噂を好ましく思っておられないでしょうが、人々は違う。民の間では、あなたが『真に王の血を継ぐ者』と呼ばれている」
風が、窓のカーテンを揺らした。
エリオットの声は静かだったが、言葉の一つひとつが胸に重く響く。レオナールは目を閉じ、しばし黙していた。
「私はたしかに亡き王アルフォンソの血は継いでいる。だが正式な継承者は兄だ」
王の座は、はなから望んでいない。兄であるルーベンが継ぐものと幼い頃から考えてきた。
こうして呪われた身になる以前、父からも『将来は王になる兄、ルーベンの右腕となり支えてくれ』と望まれていた。そこに疑問も嫉妬もなかった。それが自分の生きる道だと素直に信じていたのだ。
だが祝宴の夜、魔獣を前に恐れおののき腰を抜かすルーベンを見て、王として本当に相応しいだろうかという疑念が、初めて胸をかすめた。




