冷たい予感①
春の風がまだ冷たい頃だった。
十歳のレオナールは、魔法騎士団の一行とともに北の森へ赴いていた。王都の外れで瘴気が発生し、魔獣の群れが現れたという報せを受けたのだ。
王家に生まれながら幼くして魔術の才を示した彼は、初陣の許可を得ていた。
「殿下、決して前には出られませぬよう」
騎士団長の言葉にレオナールは素直にうなずいた。が、その瞳はすでに前方の闇を見据えていた。
森の奥は、まるで世界そのものが息を潜めたかのように静まり返っていた。鳥も鳴かず、風すら止んでいる。空気の奥で、かすかに金属のような匂いがした。
やがて、黒い影が這い出してきた。
形を定めぬ瘴気の塊。そこから、異形の魔獣が生まれる。
鋭い爪、裂けた口。騎士たちは陣形を組み、剣を抜いた。
「下がって!」
声が響いた瞬間、レオナールの杖先に光が宿る。魔法陣が展開し、幾本もの雷光が奔った。光が森を裂き、魔獣の群れを貫く。
その光景に、騎士たちは目を大きく見開いた。
少年の詠唱はまるで歌のように澄んでおり、その魔力は王家の記録にもないほどだった。
「見事です、殿下!」
団長の声が上がる。
しかし次の瞬間、ひときわ巨大な魔獣が闇を裂いて現れた。獣の体は黒い霧をまとい、眼は燃えるように赤い。
その咆哮に空が震えた。
レオナールは歯を食いしばり、杖を掲げた。
「ブラスト!」
光が再び走る。だが、その光が魔獣に届くより早く、漆黒の瘴気が逆流するように彼の体を包み込んだ。
熱い。
息ができない。
まるで体の内側からなにかが焼けるような痛みだった。
視界が白く霞み、世界が遠のいていく。誰かの叫びが聞こえた。騎士たちの魔法が次々と放たれ、やがて魔獣が崩れ落ちた。
瘴気も消えたが、そこにいたのはもはや少年ではなかった。
髪は白く、皮膚は皺に覆われ、指先まで老いが刻まれている。衣の袖から覗くその手は、老人のように枯れていた。
騎士たちは言葉を失う。誰もが目の前の現実を信じられなかった。
気を失ったレオナールは、急ぎ宮殿へと運ばれた。
***
「……これは、呪いだ」
王のアルフォンスは、玉座の間でその姿を見た瞬間、声を失った。
人払いを命じ、扉を閉ざす。
ほどなくして聖女であり王妃である、レオナールの母が駆け込んできた。
「レオナール! なんということを……!」
その声は震えていた。
彼女は両手をかざし、息子の体に祈りの光を注ぐ。
眩い光が部屋を満たし、老いた皮膚がわずかに張りを取り戻す。皺が薄れ、髪に銀の輝きが戻る。
しかし完全ではなかった。何度祈っても、何度唱えても、呪いの根は消えない。
「だめ……奥深くに、なにかが棘のように刺さっているの……」
王妃は蒼ざめながら呟いた。その額には冷たい汗が滲んでいる。
アルフォンスは妻の肩を抱き、苦しげに顔を歪める。
「もうよい、無理をするな」
「でも、この子は……この子だけは、救わなければ……!」
光がさらに強まる。
しかしその瞬間、王妃の体がぐらりと傾いた。
レオナールの名を呼びながら、彼女は王の腕の中に崩れ落ちた。
「……っ! 治療師を呼べ!」
王の叫びが虚しく響く。
彼女の体は沈黙の中。もうなんの反応もなかった。
その夜、アルフォンスは決断した。
レオナールを北の果て、ミカエル領の古城へと匿うこと。呪いを解く手がかりが見つかるその日まで――。
そして息子の身に降りかかる運命を、誰の目からも遠ざけるために。
彼は人払いをした部屋の奥で、眠るレオナールの頬に手を置き、ただひとこと呟いた。
「許せ……おまえは私に似すぎた。ゆえに、神はおまえを選んだのかもしれぬ……」
月明かりが差し込み、少年の面影がわずかに戻る。
母の祈りが残した光が、彼の胸に淡く宿っていた。
その力によってレオナールは完全な異形とならず、一日の半分だけ本来の姿に戻れるようになったのだ。
いつしか、人々の間でこう囁かれるようになる。
〝夜になると、呪われた王子は姿を変える。あまりに美しいその姿を見た者は、心を奪われるのだ〟
それが、真実を覆い隠した最初の噂だった。




