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燻る闇②

 ***


 バネッサは茫然自失のまま、宮殿の大ホールから自室に戻った。

 魔獣の血も、焦げた匂いもないのに、背後から今にも襲われる気がしてならない。

 ルーベンから怒号を浴びせられるとは思いもしなかった。ルーベンの味方は、いつだって自分だけだったから。

 扇を握ったまま、震える指先を見下ろした。指の間に微かに光る香油が滲んでいる。どんなに取り繕っても、この震えは止まらない。

 あの女――エミリア。

 その名を心の中で呼ぶと、胸の奥に鈍い痛みが走った。

 モルテン王国でも由緒ある公爵家セラディスの長女として誕生したバネッサは、九歳の誕生日に神殿に預けられた。それは聖女としての位を取るためであり、なにより王族に嫁ぐための第一歩だった。

 いつか自分は王太子妃となり、国民から敬われる存在になる。

 幼いながらも夢見て、神殿での厳しい生活に耐えた。当時十人あまりが一緒に生活をしていたが、全員自分のライバル。皆がしているように仲良しごっこをしている場合ではないと、来る日も来る日もライバルたちよりどうしたら上にいけるかばかり考えていた。

 ときには指導者に媚を売り、祈りの儀式で涙を流すふりもした。信仰など、手段のひとつにすぎなかった。


 あの頃の自分は、そうやって生き残るしかなかったのだ。いつか王太子妃に選ばれる日がくると思えば、寂しく惨めな日常など取るに足らないことだった。

 だが、神殿ではいつも、ひとりだけ特別扱いを受ける少女がいた。名を、エミリアという。

 透き通るような声で祈るだけで、聖印が光り、指導者たちは口を揃えて彼女を『神に選ばれし娘』と呼んだ。――大した魔力もないくせに。

 そのとき、バネッサは悟った。努力や美貌では届かない場所が、この世にはあるのだと。

 やがて神殿を去り、王宮へ戻る日が来た。王太子妃の座が誰の手に渡るかが決まる時期。

 エミリアが選ばれたと聞いた瞬間、胸の奥でなにかが音を立てて崩れた。

 バネッサは美しさも教養も家柄も、どれをとっても完璧だった。なのに、王太子の傍らに立つ資格を取ったのは、神殿育ちの〝聖女〟だった。

 ならば、べつの道を選べばいい。

 妃が無理ならば、王太子の傍に仕える道がある。王の最も近く、彼の秘密を共有できる場所だ。

 そうしてバネッサは神殿の聖衣を脱ぎ捨て、宮殿に立った。宰相付きの侍女として仕え、やがて王太子ルーベンの信を得る。彼の心の闇を知るたびに、彼女は奇妙な安堵を覚えた。

 この人は、私と同じ。

 弟を妬み、神に見放されたと思い込む孤独。その孤独に寄り添えば、いつかこの王子の心もすべて自分のものになる。

 そう信じて彼を慰め、癒し、甘い毒を垂らしていった。


 そしてついに、王が崩御した。

 エミリアは追放されルーベンが王となり、彼の腕の中にいたのは自分、ただひとりだった。


『これでいいのよ……』


 その夜、初めて玉座の間でルーベンと並んで立ったとき、胸の奥で歓喜が弾けた。

 夢は叶った。努力も、策略も、祈りも、この瞬間のためにあったのだ。

 だが、運命はいつも、残酷な形で微笑む。

 祝宴の夜、金と光の海に包まれた宮殿で突如、闇が裂けた。

 魔獣の咆哮、焼け落ちる天井、悲鳴。そしてその混乱の中、闇を払ったのはルーベンでもバネッサでもなかった。

 若き日の姿を取り戻した〝夜の王〟と、祈りの光を抱く聖女エミリア。

 光の中に立っていた彼女が、今もまぶたの裏に焼きついて離れない。血と煙に包まれたあの場で、恐怖ひとつ見せず、祈りのように光を放った。

 そしてその光が王の足を癒やした瞬間、彼女は〝聖女〟として再びこの宮殿に立ったのだ。自分が何年かけても得られなかった称賛を、たった一度の祈りで取り戻して。

 その瞬間、すべてがひっくり返った。自分が積み上げてきたものが、粉々に砕け散る音がした。

 ルーベンの目が彼女を追ったのを、バネッサは見逃さなかった。


「どうして、あの女が」


 呟いた声は震え、扇を握る指に力がこもる。

 香油が滲み、爪が白くなる。


 ――あの女さえいなければ。


 鏡の中に映る自分の顔が、薄く歪む。完璧に整えた髪も、宝石を散らした襟元も、どこか薄汚れて見えた。


「ふざけているわ……」


 唇の端がひきつる。


(私がどれほどの犠牲を払ってこの座に就いたと思っているの。どれほど笑顔を作り、どれほど人を操り、どれほど心を削ってきたと思っているの)


 なのに、彼女は祈るだけですべてを手にする。

 愛も、敬意も、光も。

 ――光。その言葉が、胸の中で反響する。

 エミリアの放った光が宮殿を包んだとき、焼けるような痛みを感じた。

 まるで、その光に裁かれたような気がした。

 だからだろうか、今も胸の奥が熱い。

 怒りなのか、嫉妬なのか、それとも恐怖なのか。


「陛下……」


 その名を呼んでも、返事はなかった。

 情けない男。この国の王があれでは、誰も救えない。

 彼の心は、もう自分のほうを見ていない。見ているのは、あの女とあの夜の王。

 ならば、奪うしかない。神の光が自分を見放すなら、自ら闇の力を選ぶまで。

 バネッサは唇を噛みした。


(そう。だから私が……)


 バネッサの瞳に冷たい光が宿る。扇を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。

 このままでは終わらせない。奪われたものは、必ず取り返す。

 たとえ、それが〝聖女〟の光を穢すことになろうとも――。


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