月夜の王②
レオナールが目を覚ましたのは、外がすっかり暮れた頃だった。窓辺から風が流れ込み、燭台の火がゆらゆらと光を散らしている。
そのやわらかな光の中で、老いた姿の彼は静かに変化をはじめた。
その様子を初めて見たエミリアは、言葉もなくただ見つめるばかり。白髪が銀の光を帯び、刻まれていた皺が滑らかに消えていく。
息をひとつ吐いた瞬間、そこに立つのはあの若く、美しいレオナールだ。
シルバがくうんと鼻を鳴らす。
「……もう大丈夫ですか?」
傍らにいたエミリアは、息を呑むように問いかける。
レオナールはゆっくりと瞼を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ。……行く準備をしよう」
その声に、エミリアも身を整えはじめた。
淡い藤色の絹を纏い、仕立て屋が丹精を込めたドレスを纏う。光を受けるたび、銀糸の刺繍がほのかに輝き、春の夜に咲く花のようだった。
カーリンの手で髪は丁寧に結い上げられ、白い花飾りが一輪、そっと添えられる。
「エミリア様、本当に……お綺麗です。春そのものみたい。殿下も凛々しくて素敵」
カーリンがうっとりと呟く。
レオナールの黒を基調とした上衣は夜の闇そのもののように深く、光を吸い込むような艶を持っている。肩口と袖口には銀糸で緻密な刺繍が施され、古の守護紋が静かに輝いていた。
それはこの国の王家に連なる者だけが身に纏うことを許された紋章。しかし彼はそれを誇示することなく、まるでただの布切れのように自然に着こなしていた。
髪は銀の糸のように流れ、わずかに風を受けて光を返す。目元には静かな光が宿り、その瞳の奥に深い知恵と哀しみがあった。
エミリアは思わず息を呑む。まるで夜に生まれた精霊のようだった。
静かで凛としていて、どんな嘲りも触れられない気高さがある。
レオナールはそんな彼女の視線に気づいたのか、微かに微笑む。
「そんなに見つめられては、祝宴に間に合わなくなる」
「だって、あまりにお美しくて……」
その言葉に、レオナールは少しだけ肩を竦めた。
「夜が味方をしてくれているだけだ」
冗談めかして笑う。
(この美しい姿を、昼の陽の下では誰も知らないなんて……)
つい時間も忘れて彼と見つめ合っていると、カーリンが咳ばらいをして声をひそめる。
「それで……おふたりが休まれている間に、少しだけ宮殿の中を歩いてきたんですけど。……あっ、なにもしていませんから怒らないでくださいね」
「もう、カーリンったら」
「無茶はやめてくれ」
「ごめんなさい。それで、気になる話を聞いたんです」
カーリンは頭をぺこりとしてから顔を近づけ、小さく囁いた。
「最近、この王都の近くで魔獣が出たそうなんです。結構大きな被害が出て、魔法騎士団が出動したとか。城下の人たちもみんな知っているみたいで、宮殿内はその話でもちきりでした」
部屋に沈黙が落ちた。
レオナールは静かに顔を上げ、窓の向こうを見やる。遠く、王都の夜空を照らす灯が風に揺れていた。
「魔獣がここへ……。王都の結界は神殿によって守られてきたはずだ。それが破られたというのか」
低い声で呟く。
エミリアは胸の前で両手を組み、眉を寄せた。
「やはり神殿との関係を断ち切ったことが問題なのでしょうか」
「断定はできないが、王都に瘴気が迫りつつあるのはたしかだ」
ふと、レオナールの瞳が遠くを見つめるように揺れた。
「よくないことが起こるかもしれぬ」
シルバが足もとで小さく鳴き、尾を揺らす。
その音に、張り詰めた空気がわずかに和らいだ。
レオナールはその頭を撫でながら、静かに息を吐く。
「行こう」
エミリアはうなずき、そっと彼の腕に手を添える。ふたりの後ろをカーリンがついていく。
廊下には金の燭台が並び、青い絨毯の上に無数の灯が揺れていた。
「緊張しているのか?」
歩きながらレオナールが問いかける。
エミリアは少しだけ微笑んで答えた。
「はい。でも、レオナール様が隣にいてくださるなら大丈夫です」
「ならば、私も心強い」
レオナールの目元が優しく緩む。
「おふたりは仲がよろしいですよね。私、お邪魔じゃないですか?」
カーリンが背後で問いかける。決してからかっている風ではなく真面目だ。
「やだ、やめて、カーリン」
振り返ったエミリアは頬を熱くする。レオナールも誤魔化すように咳払いをした。
やがて、遠くから音楽が響いてくる。リュートと笛の旋律が交わり、祝宴のはじまりを告げていた。
扉の向こうから、笑い声と杯の触れ合う音が漏れ聞こえる。王と王妃が待つ大広間に足を踏み入れれば、再び王都の視線が彼らを包むだろう。
エミリアは小さく息を吸い、レオナールを見上げる。
彼もまたエミリアを見た。その静かな眼差しに導かれるように一歩を踏み出す。
重厚な扉が静かに開くと、音楽がふっと途切れた。




