静けさの中にある祈り③
王都の城門が見えたのは、出立から三日目の昼前だった。
朝日が塔の先端を照らし、白い城壁はまぶしく輝いている。遠くで鐘の音が鳴り、街のざわめきが風に乗って届いた。
エミリアがかつて暮らしていた王都だが、懐かしさよりも緊張を連れてやって来る。
馬車が石畳を進み、城門をくぐった。華やかな中庭には花々が咲き乱れ、噴水が陽光を反射してきらめいている。
素早く伝達がいったのか、宮殿前には侍従や文官たちが並んでいた。歓迎というよりは、好奇から集まったのだろう。追放された元王太子妃と、呪われた第二王子をひと目見てやろうという空気が肌に刺さる。
事実、ざわめきの中に嘲るような囁きが混じるのが馬車の中にも聞こえてきた。
「元王太子妃が本当に戻ってきたのか」
「呪いに取り憑かれた殿下と、その妃……」
「かの第二王子が乗っているらしいぞ。どんな姿か見ものだ」
「夜には異形になって本当なのか」
声のひとつひとつが、花の香に紛れて重く届く。
「みんな好き勝手に言ってひどいですっ」
カーリンが息を巻く。眉根を寄せ、見せたこともないような険しい表情だ。
レオナールの気持ちを考えると、エミリアも胸が苦しい。シルバにもなにを言っているのかわかるのか、警戒するように喉をぐるると鳴らした。
だが隣に座る彼は表情も変えず、静かに目を伏せているだけ。老人の姿の今だからこそ、どうかその声が彼の耳に届いていなければいいのにと願ってやまない。
膝に抱いたシルバのやわらかい毛並みを撫でて気持ちを落ち着けようとする。
馬車が止まり、御者が扉を開いた。
エミリアは薄い上着の胸元にシルバを隠してカーリンに続いて降り立ち、手を伸ばしてレオナールを介助する。
深く刻まれた皺と白髪、そして杖を手にした老いた彼が降り立った途端、集まっていた侍従や文官たちはざわついた。
「聞いていた通りの老いた姿だな」
「これはこれは……言葉ではとてもいい表せない」
「憐れな姿だ」
口々に彼の容姿について囁き合い、興味津々に観察するような視線が矢のように飛んでくる。
エミリアはそれらから守るように立ちはだかったが、レオナールは意に介さずゆるやかに前へ歩み出た。白髪を陽に光らせながら、静かに前を見つめる。
杖を手にしているというのに、その立ち姿は老いを感じさせない。むしろ威厳さえあり彼の周囲だけが不思議な静謐に包まれているようで、視線を向ける者たちは次第に声を失っていった。
やがて案内された宮殿内にある、謁見の間の扉が重々しく開く。金糸を織り込んだ緋の絨毯の上を、ふたりの人影が笑みを浮かべながらゆっくりと進み出てきた。
ひとりは王冠を戴く国王ルーベン。もうひとりは血のように赤いドレスを纏った王妃バネッサ。エミリアに追放を命じたふたりだ。
その笑みの下になにが潜んでいるのか、誰よりも知っている。
ルーベンの視線がレオナールに向けられた。
「久しいな、弟よ。谷の守りはどうだ」
「おかげさまで平穏です、陛下」
老いた声でそう応えるレオナールの横顔には、一分の曇りもなかった。
だが、ルーベンの目にはかすかに影がよぎり、彼を見下ろしながら唇を歪める。
「そうか……。だが、谷の風は冷たかろう。あの地で老いた身に耐えるのは骨が折れるだろう?」
嘲りとも憐れみともつかぬ響きがある。
しかしレオナールは穏やかに微笑み、静かに言った。
「冷たい風も、守るべきものを思えば温かいものです」
ルーベンが唇の端をわずかに吊り上げる。
「……相変わらず、言葉の綾だけは見事だな、弟よ」
ルーベンは視線をゆっくりとエミリアへ移した。
「そしてお前も、変わらぬな。追放されてもなお、その瞳は誇りを失っていないようだ」
その声音には賞賛とも、皮肉ともつかぬ響きが混じる。
「陛下のお言葉、ありがたく頂戴いたします」
エミリアが静かに頭を垂れると、バネッサが手にしていた扇をゆっくりと開き、その顔を現した。真っ赤な唇が微笑む。
「まあ本当だわ、エミリア。ずいぶんとお元気そうね。北の冬はさぞお寒かったでしょうに」
「はい。けれど、とてもあたたかな場所でした」
エミリアがそう答えると、王妃の瞳は一瞬だけ細くなった。
「あたたかい場所、ね。ふふ、それはなにより」
エミリアはゆっくりと頭を下げた。
「殿下のおそばにいれば、どんな冬も越えられます」
それは決して反論ではなく、素直な言葉だ。
「私の目には陛下の弟君はご老体のように見えるのだけど。負け犬の遠吠えかしら」
バネッサの挑発にエミリアが口を開きかけたとのとき、レオナールは静かに首を横に振った。ふたりの視線が一瞬だけ重なり合う。言葉はなくとも、その沈黙の中に誇りとたしかな絆があった。
眉をひそめ、扇で口元を覆うバネッサの隣でルーベンは目を鋭くし、なにかを測るようにふたりを見つめる。
やがて、軽く手を上げた。
「部屋を用意してある。夜の祝宴まで時間があるから、旅の疲れを癒すといい」
背を向けるその王の背中に、得体の知れない影がちらりと揺れる。
表向きは平穏な会話だった。しかし、その裏になにかが潜んでいるのを肌で感じる。その気配をシルバも感じるのだろう。胸元で小さな唸り声をあげている。
エミリアは唇を結び、深く礼をしてからレオナールとともにその場を辞した。
宮殿の回廊を歩くうちに、懐かしい香りや音が次々と蘇る。
でもどれも、今の自分には遠い。
老いた背中を静かに支えるように寄り添いながら、エミリアは思う。
(この場所は光に満ちているのに、息が苦しいわ)
ふと横を見ると、レオナールは目を伏せていた。その横顔には疲労の影のほかに、なにかを耐えるような強さがある。
エミリアはそっと彼の手に触れた。すると弱い力ながらも、その手が握り返してくる。
それを見ていた侍従のひとりが、無表情のまま部屋の扉を開けた。
案内されたのは、宮殿の西翼にある客間だった。
重厚な扉が閉じられると同時に外のざわめきが遠のく。代わりに聞こえるのは静かな時計の針の音と、薄いカーテン越しに揺れる風の気配だけ。
「ひどい……!」
最初に声を上げたのはカーリンだった。怒りに頬を紅潮させながら、ぎゅっと拳を握りしめる。
「王と王妃があんなふうに人を見下すなんて……! 殿下とエミリア様がどれほど立派な方なのか、まるで知らないくせに!」
その勢いに、エミリアの胸元からジャンプして飛び出したシルバが「ふるる」と低く鳴いて同意する。
エミリアは小さく息をつき、カーリンの肩にそっと手を置いた。
「ありがとう、カーリン。でも怒らないで。ここでは、言葉ひとつが刃になるわ」
優しい声色で静かに警告する。
レオナールは黙っていた。窓辺の椅子に腰を下ろし、ひとつ息を吐く。
その吐息が、旅路の疲れと先ほどの対面で受けたダメージの重さを物語っていた。
「レオナール様、お疲れでしょう。少しお休みください」
エミリアの言葉にうなずき、レオナールはベッドに身を横たえた。
白髪が枕に広がり、薄い陽光が彼の横顔を照らす。閉じた瞼の下で、眉がわずかに寄っている。痛みか、あるいはなにかを堪えているのだろうか。
エミリアは椅子を引き寄せ、ベッドのそばに座った。手を伸ばし、レオナールの胸の上にかざす。
手のひらから淡い光が滲み出し、優しく波紋のように体へ広がっていく。その光は月明かりのようにやわらかく、静かな呼吸とともに揺らめく。
シルバはエミリアの近くに寄り添い、静かに前足をそろえて見守っていた。金色の瞳が揺れる光を映し、祈るように瞬きをする。
カーリンはその様子を見つめ、息を詰めるように小さな声で呟いた。
「ほんとに、温かい光……」
やがてレオナールの表情から緊張が抜け、呼吸が穏やかになる。
エミリアはその変化を感じ取り、安堵の笑みを浮かべた。光を放っていた手を下ろし、彼の手を包み込む。
「少し眠れば、もっと楽になります」
その声は子守唄のようにやさしく響く。
シルバがベッドの端に身を寄せ、丸くなって眠りの気配を漂わせた。
(どうか、この祝宴でなにも起こりませんように……)
静けさの中、エミリアは彼の寝顔を見つめながら祈った。




