静けさの中にある祈り②
王都へ向かう街道は、春の気配に満ちていた。
エミリアが封印の谷へ向かっていたときとはまるで違う。あのときは北へ向かえば向かうほど気温は下がり、雪が吹きつけ、世界の果てのような光景だった。
今は雪解け水がせせらぎとなって流れ、あちらこちらに小さな花が顔を覗かせている。道中は穏やかで、行く先々で鳥の声が響いた。
日が落ちる頃、エミリアたちは森の外れにある古い宿に泊まることにした。
石造りの壁には蔦が絡まり、窓から沈んでいく太陽が見える。焚き火の煙が細く立ちのぼり、夜の気配がゆっくりと降りはじめていた。
馬車から荷を下ろし終えたあと、エミリアはカーリンとともに食事の支度をしていた。シルバは疲れたのか、床で小さい姿のまま丸くなっている。
火がぱちぱちと音を立てる中、ふと背後に気配を感じて振り返る。そこに立っていたのは、昼間とは違う姿のレオナールだった。
銀の髪が炎の光を受けてきらめき、若々しい姿が闇の中に浮かび上がる。
その姿は何度か見ているはずなのに、エミリアは言葉を失った。
夜の静寂が彼の輪郭をやわらかく包み、夢の中の存在のよう。
「外の風が心地いい。少し散歩をしないか」
そう言って差し出された手を、エミリアはためらいながら取った。
外へ出ると、春の夜気が頬を撫でていく。星々は瞬き、遠くでは夜鶯の声がしている。
「このあたりはもう王都の領内ですか?」
「ああ、境は越えた。明日には都の塔が見えるだろう」
レオナールの声は穏やかで、どこか懐かしげだった。
その横顔にほんの一瞬、痛みのような影が差す。
「レオナール様」
「ん?」
「昼の姿で、道中お疲れではありませんでしたか」
彼は静かに首を横に振った。
「心配いらない。少しばかり骨が軋む程度だ」
軽く笑う声の裏に、かすかな寂しさが混じっていた。
その笑みを見て、胸が締めつけられる。この人の背負う痛みを癒せたら。そう思わずにいられない。
しかしこの呪いは、ただの傷ではない。どうしたら解くことができるのか。答えの出ない問いはエミリアの心の中でずっと渦巻いていた。
レオナールがふと足を止める。草の上に舞い落ちた花びらを拾い上げ、指先でそっと弄ぶ。
「王都に戻れば、いくつもの視線が待っている」
「ええ」
「それでも、エミリアが笑っていられるようにしたい。どんな場でも」
静かな声は風よりも優しかった。
エミリアはその言葉を胸に受け、目を伏せる。
「私も、レオナール様が笑っていてくださるなら、それで十分です」
そう言ったとき、春の風がふたりの間をすり抜けた。
銀の髪が流れ、レオナールが微笑む。
その笑みを見ながら、この夜が永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。レオナールと過ごすたびに、そんな願いがエミリアの心をかき乱す。
(……私、レオナール様が好き)
その思いが胸の中で形を持った瞬間、世界の色が変わった気がした。
夜空の群星も、彼の横顔を照らす月光さえも、すべてが美しくて胸が痛い。
レオナールの声を聞くたびに、老いた姿を見送るたびに、そしてこの若き夜の姿を見るたびに、心がただ彼を求めてしまう。
それは王太子妃として過ごした日々にはなかった感情だ。あの冷たい宮殿では、誰かに想いを寄せるということを忘れていた。
与えられた笑みを浮かべ、空虚な祈りを捧げ、決められた役を生きてきた。
でも今は違う。レオナールのもとでは、ただエミリアとして息をしている。
老いた姿であろうと夜の姿であろうと、彼は同じ人。この胸を満たす温かさは、外見の違いなど関係ない。
そんな想いに気づいたとき、涙が滲みそうになった。
彼の抱える痛みも長い孤独も、すべてを抱きしめたくなる。
「どうした?」
レオナールが小さく首を傾げる。
夜風が銀の髪を揺らし、彼の瞳が焔のように瞬いた。
エミリアは慌てて微笑みを作る。
「……いいえ。夜空が綺麗だと思っただけです」
彼は目を細めた。
「そうか。春は、人の心も解ける季節だからな」
その何気ない言葉が心を揺らす。
(いつか、この想いをレオナール様に伝えたい)
エミリアは、祝宴が終わってミカエル領へ帰ったら、ありのままの気持ちを伝えようと心に決めた。




