彩りに満ちた世界①
雪解けの季節が終わり、ようやく北の地にも春が訪れた。
砦を覆っていた氷はなくなり、風の匂いに花の香りが混じる。
エミリアがこの城に来てから、三カ月が経った。
彼女が歩くたび、城内の空気がやわらいでいくのを感じる。祈りの光が石壁を包み、かすかに甘い香りを残した。
レオナールは、この辺境に〝春〟など二度と訪れぬと思っていたが、彼女はそれを連れてきた。これまで無色だった世界が、彩に満ちている。
しかしその光のそばにいると、痛みも蘇る。
王都での記憶だ。
呪いを受け、異形の老いた姿に変わり、兄に見捨てられた夜。
あのとき、死ねていれば楽だった。そう思ったはずなのに、今は違う。
彼女の祈りを見つめていると、胸に微かな炎が灯る。それは希望などというものではなく、もっと静かな願い。彼女のそばで笑っていたいという願いだった。
その夜、森の向こうで異様な気配がした。
空気がわずかに揺れる。鳥も鳴かず、風すら止まっている。
レオナールは寝室の窓を開けた。
冷たい空気が頬を打つ。春を迎えたとはいえ、夜の間は冷え込みが強い。
月光が差し込んだ瞬間、老いた肌が若さを取り戻していくのを感じる。
皺は消え、銀色の髪が闇の中に光を放つ。
夜だけ戻る、この姿。それが呪いからの束の間の解放であり、戦うための唯一の糧であった。
剣を手に取り、扉を開けると、外気が流れ込む。足を早めて森に近づくと、腐敗したような匂いが鼻をついた。
黒い霧の中から現れたのは、いつものごとく魔獣だった。皮膚の下で骨が蠢き、口から蒸気のような闇を吐いている。その目には光はない。
「……また、こんなところまで」
ここ数カ月、森の奥深くに住む魔獣が人間の住む世界まで足を踏み入れるようになっている。以前はめったになかったが、確実に侵食してきているのだ。
兄王ルーベンが神殿との契約を打ち切り、祈りを捧げなくなったことが災いしているのではないか。聖女であるエミリアを追放し、慣例を破って力のない人間を王妃に据えるという愚かな行為が、今の状況を説明できるもっともな要因に思えてならない。
千年にわたって守られてきた均衡が崩れはじめているのか――。
レオナールは剣を抜き、刃を横に払った。
鋼が月を裂き、魔力が刃に流れ込む。次の瞬間、レオナールは土を蹴って跳んだ。
光の刃が獣の胸を貫く。轟音とともに黒い血が散り、地面が焦げた。
その背後から、二体、三体と影が湧き上がる。
レオナールは呼吸を整え、低く呟いた。
「我が剣に宿れ――氷鎖の紋」
足元から氷の紋が広がり、魔獣の脚を絡め取る。動きを封じた瞬間、炎の魔術を重ねて叩きつけた。
土が焼け、光と闇が交錯する。獣たちの咆哮が消えたとき、森は再び静まり返っていた。
剣先から滴る血を振り払い、息を吐く。
夜の闇はまだ深く、朝は遠い。
城へ戻ると、暖炉の灯が小さく揺れていた。
エミリアが起きて待っていたのだ。傍らにはシルバもいる。
彼女はレオナールの姿を見て、安堵と憂いの入り混じった微笑を浮かべた。
「おかえりなさい、レオナール様。お怪我は?」
「この程度、かすり傷だ」
彼は剣を壁に立てかけ、席につく。
エミリアはそばに跪き、その傷痕に手をかざし祈りをはじめた。
「このくらい大丈夫だ」
「いいえ、傷が膿んでは大変です。治癒師もなかなか呼べないのですよね? ですから私が」
「すまぬ」
「謝らないでください。私がそうしたいのです」
エミリアの手から温かな光が放たれる。少しずつ傷口は塞がり、やがて跡形もなく消え去った。
(ここへ来た頃より魔力が強くなっていないか……?)
初めのうちは痛みを軽減する程度だったが、近頃は傷を消し去るほどの力がある。
「……ありがとう、エミリア」
感謝の言葉とともに微笑むと、エミリアははにかんだ。
卓には、温かなスープと焼きたてのパンが並んでいた。戦いのあとの静けさが心地いい。
エミリアが手を伸ばし、レオナールの肩にそっと触れた。その指先の温もりが、冷えた体に染みていく。
「レオナール様が戦っている間、風が騒いでいました。……まるでなにかを祓っているように」
「祓う、か。そうならいいが」
レオナールはスープを口に運んだ。温かな味が喉を通り、胸の奥が熱を帯びる。
「真の姿に戻れるのは、夜の間だけなのですね」
「ああ。皮肉な話だ」
エミリアは小さく首を振った。
「それでも、私はその姿でお会いできてうれしいです」
レオナールは一瞬、息を詰めた。
誰かの言葉に心を掴まれることなど、今まであっただろうか。
「王都にいた頃、呪いによって異形に変わると聞いていたので驚きましたが」
「異形?」
「はい。なので、魔物になった姿で魔獣と戦っているのかと思っていました」
エミリアがはにかみながら笑う。
「では、期待を大きく裏切ってしまったわけだな」
「裏切っただなんて……。本当のレオナール様に出会えましたから。でも、どちらのレオナール様も、私にとっては同じくらい大切です」
その言葉に、レオナールは息を呑んだ。
「……っ、私はなにを言っているのでしょう」
エミリアは慌てたように目を逸らし、頬を赤く染めた。
暖炉で火の粉がぱちりと弾け、ふたりの影が壁に寄り添うように揺れる。
この穏やかな夜が、長く続けばいい。
そう願いながら、レオナールは黙って彼女の笑顔を見つめていた。




