静かな企み③
(――いや、なにを感傷に耽っている。エミリアを追放し、私は救われたはずだ。レオナールとともに沈黙の谷に沈めたのだ。もう恐れるものはなにもない。そうだ、私は間違っていない……!)
不意にバネッサがルーベンを背後から抱きしめる。
「陛下、私がいるではないですか。それで十分でしょう?」
バネッサの声は絹のようにやわらかいのに、どこか冷たい。彼女の腕が、ゆっくりとルーベンの胸を締めつける。
「十分、か」
ルーベンはわずかに笑った。その笑みには、疲労と嘲りが入り混じっていた。
「お前の言う『十分』は、なにを指している。国か、私か」
バネッサは小さく息を吐いた。
「どちらでも構いません。あなたが王である限り、私はあなたに仕えます。けれど私は信じています。あなたが神に選ばれたのではなく、自らの手で王となった人間だからこそ、この国は生き延びるのだと」
その言葉に、ルーベンは目を細めた。
〝神に選ばれた〟
その響きが、耳に刺さる。エミリアを、レオナールを、思い出す。
「選ばれた者、か……。お前も昔はその座を望んでいたのではなかったか」
低く問うと、バネッサはわずかに笑った。
「ええ。でも、あの頃はまだ愚かでした。光を手に入れようとすればするほど、自分が醜く見えた。だから闇を選んだのです。……あなたと同じように」
ルーベンの背にあたる彼女の頬が、かすかに熱を帯びる。
「陛下。あなたの国には、もう祈りはいらない。必要なのは、あなたの恐れでも、迷いでもない。ただ、王としての意志だけです」
彼女の言葉は蜜のように甘く、同時に毒のように強かった。
ルーベンはその甘さを拒めず、肩の力を抜く。
「……そうだな。祈りなど、いらぬ」
そう言いながらも、胸の奥では鐘の音が鳴り続けていた。
それが罪の音だと知りながら、ルーベンは振り返ってバネッサの腕を掴み、その指先に口づけた。
バネッサの瞳が細くなる。
「いい子ですね、陛下」
その声には王をも包み込むような優しさと、王を手のひらの上で転がすようなふてぶてしさがあった。
エミリアを追放して一カ月半が経過したある夜、バネッサと過ごしていたルーベンの部屋の扉が忙しなく叩かれた。
静まり返った部屋に、鉄靴の音が響く。入ってきたのは、黒い外套を纏った近衛長だった。
「陛下、申し上げます」
「こんな夜更けに何事だ」
「王都北西の郊外で魔獣の出没が確認されました。被害はまだ軽微ですが、農民が二名行方不明との報告が……」
ルーベンは眉をひそめた。
「魔獣だと? ばかな、あの辺りは長らく結界に守られてきたはずだ」
「はっ。ですが、神殿が封鎖されて以降、結界の維持を行える者がおらず……。残存していた防護陣も、先月の雷雨で損壊したとのこと」
部屋に沈黙が落ちた。
「……たわけたことを言うな。神殿の力がなくとも、王都に魔獣など入り込めるものか」
ルーベンの声は低く、しかしわずかに震えていた。
バネッサがそっと彼の袖を取る。
「陛下、落ち着いて。たまたまですわ。北方から流れてきた魔獣の群れでしょう。すぐに鎮圧できます」
彼女の微笑は、まるで何事もないかのように穏やかだった。
だが、ルーベンの胸には冷たいものが落ちる。
王都に魔獣など現れたことはない。それは、千年のあいだ聖女の祈りが保ってきた秩序の証だった。
「……魔法騎士団を動かせ」
低く命じると、近衛長が深く頭を垂れた。
「第一・第二小隊を郊外へ。第三小隊は王都防衛を強化せよ。民を騒がせるな」
「はっ、直ちに」
近衛長が去ると、再び静寂が訪れた。
バネッサが、微笑を絶やさぬまま囁く。
「ご安心を。すぐに片がつきますわ。魔獣ごとき、陛下の時代にふさわしくありません」
ルーベンはうなずいたものの、胸の奥のざらつきは拭えなかった。




