静かな企み②
ルーベンには、それが耐えがたかった。まるで自分が聖女に擁護されて今の地位に座っているかのように思えたからだ。
彼女の目の奥にはいつも誰にも触れられない静けさがあり、ルーベンはその神聖さを、どうしても受け入れられなかった。
彼女が夜ごと神殿に通い、祈りの間でひとり跪く姿を見たとき、胸の奥で黒いものがざわめいた。
なぜ、私ではなく神なのだ。彼女の唇から零れるのは、いつも祈りの言葉ばかり。その生真面目さや静粛さが、ルーベンを蝕んでいった。
そして彼女から逃れるようにして、バネッサに溺れていく。
バネッサもまた、ルーベンと似た闇を抱えていたため、惹かれ合ったのも無理はないのかもしれない。
バネッサ・クローデル。
彼女はかつて神殿で祈りと魔術を学んでいた。聖女候補のひとりとして名を連ねていたが、選ばれたのはエミリアだった。
優しく真面目で、すべての者に平等に微笑むエミリアに、誰もが信頼を寄せていた。その清らかさが、バネッサには耐えられなかったとルーベンは後になって聞いた。
『神に選ばれるのは、努力ではなく生まれつきの光なのね』
そう吐き捨てて神殿を去ったのは、エミリアが聖女の座に就いた翌年のことだ。
彼女はのちに、ルーベン付きの侍女として王宮に仕え、頭角を現していった。
冷静で聡明で、他人の欲を見抜くことに長けていた。
そして、誰よりも早くルーベンの孤独を見抜いた。
ルーベンが夜ごと酒をあおり、言葉少なく沈黙の中に立ち尽くしているとき、静かに盃を差し出したのはいつもバネッサだった。
彼女は慰めを語らない。ただ沈黙を受け入れる術を知っていた。それが、エミリアにはできないことだった。
いつしかルーベンは、バネッサの手を求めるようになっていた。その手には神の祝福も、祈りの光も宿っていない。だが、その〝穢れなさ〟が救いだった。
祈りを知らぬ唇が自分の名を囁くたび、ルーベンは初めて人間として愛されている錯覚に包まれた。
『陛下、光など要りません。闇の中のほうがあなたは美しい』
その言葉に、ルーベンは初めて微笑んだ。
しかしその微笑の奥で、崩れはじめたものがあった。
神殿を封じ、聖女を追放してまで手に入れた王の座は、いつしか空洞のように虚ろになっていた。
背後で衣擦れの音がした。バネッサが近づき、銀の杯を差し出す。
エミリアと離縁した今、バネッサはルーベンの妻であり王妃である。
「また夜更けまで起きておられるの? 陛下」
「……静かにしていろ」
杯を受け取り、赤い酒を口に含む。舌に残る鉄のような味が、妙に血を思わせた。
「あなたは正しかったわ」
バネッサの声が甘く流れる。
「神殿の連中はもう王に逆らえない。誰も陛下に意見しない。あなたの時代が来たのよ」
彼女はそのまま彼の肩に触れる。だが、ルーベンの瞳は遠くを見ていた。
訪れるはずの心の静寂はなく、耳の奥で鐘の音がする。頭の中で白い光が揺らめいた。
(誰かの祈りか……?)
ふと窓の外に目を向けると、北の方角――ミカエル領の空がかすかに光った。
雷か、それとも……。
(まさか、あの女の祈りの光か――)
胸が軋むように痛んだ。
「……エミリア」
その名を呟いた瞬間、バネッサの手が止まった。赤い唇が冷たく歪む。
「なぜ、その女の名を」
「黙れ」
ルーベンは短く吐き捨て、杯を床に投げつけた。
砕けた硝子の上に、赤い酒が滲んでいく。
なぜだ。彼女を追放したのは、自分だというのに。
なぜ、あの光だけが、今も自分の中で消えない。まるで、自分の罪を照らすために灯っているようではないか。
ルーベンは窓辺に手をつき、闇の向こうを見つめた。
遠く、雪解けの風が吹いている。あの北の果てで、エミリアは今どうしているのだろう。




