静かな企み①
夜の王宮は、かつてよりも静かだった。
神殿の鐘はもう鳴らない。廊下を満たしていた祈りの声も消えた。
代わりに響くのは、玉座の間の石床を踏む己の足音だけ。それが今の王都の〝秩序〟だった。
国王ルーベン・アルタミラは窓辺に立ち、暗い王都を見下ろしていた。
城壁の外、灯の途絶えた神殿が影のように沈んでいる。あの白い塔の最上階で、かつて聖女たちは夜明けまで祈っていた。風が吹けば、鐘楼の音が柔らかく城へ届いたものだ。
だが今、その音はない。沈黙こそが新しい王の証であった。
――これでいい。
そう自分に言い聞かせる。
神殿は民の心を縛る。父も弟も、そして……あの女も、皆そこに膝を折っていた。
ルーベンが求めたのは力だった。祈りではなく、意志で国を動かす力。
それなのに、なぜだ。
エミリアを追放した日から、夜になると決まって夢を見る。
雪の中、淡い光を放つ女。振り返ったその瞳が、自分ではなく〝誰か〟を見つめている。
その誰かの影が、決まって弟・レオナールの姿に変わるのだ。
「またか……」
苦い息が漏れる。夢から覚めるたび、胸の奥に残るのは、焼けつくような焦りだった。
どうして、あの光はいつもあいつを選ぶのか。
レオナール。勉学でも剣でも魔術でも、自分がどれほど努力しても届かなかった弟。
父はいつも彼を誇りに思い、自分を見ようとしなかった。
『私の血を受け継いだ立派な息子よ。レオナールがいれば、この国は安泰だ』
幼い頃、父の膝の上で褒められていたレオナールの笑顔を何度、拳を握って見ていたことか。
レオナールはわずか十歳にして、遠い北の地で暴れる魔獣討伐の任務にあたる魔法騎士団に修行の名目で同行していた。幼いながらも強大な魔力を持つ弟は、父から大いに期待されていたのだ。
(あいつがいたら、僕は一生日の目を見ない。父上は僕を王にするつもりはないんだ。そんなの許してたまるか。だって僕はこの国の第一王子なのだから)
沸々と煮えたぎる憎しみは、一心にレオナールに向いていく。
(あいつがいなくなれば……あいつさえいなければ……)
だが、ただ命を奪うだけでは気が済まない。むしろ生きながら、地獄を味わえばいいと願った。
その願いが叶い、レオナールが呪いに倒れたとき、ルーベンは初めて安らかに眠れた。これで将来、国の頂点に立つべき自分を脅かす者はいなくなったのだ。
しかしルーベンの憂いは終わらない。国の定めにより、王位継承者には聖女を妻として迎える慣例があった。
神殿と王権の均衡を保つための古い掟。ゆえに彼の意思とは無関係に、結婚相手が決まった。
その名を聞いたとき、ルーベンはただ、冷たく笑った。
〝聖女エミリア〟神に愛された女。父が敬い、民が崇めた存在だ。
この世に神などいないのに。
本当に神が存在するならば、第一王子の自分がこれほど惨めな思いをすることはなかったはずだ。
レオナールとて同じ。あれほど父に愛された彼は呪われた。
神がいれば、どちらも起こりようはないだろう。つまり、神はいない。
しかしルーベンの鬱屈した思いとは裏腹に、神殿主導のもとエミリアとの結婚は粛々と進んでいく。
そうしていよいよ婚礼の日、神殿の鐘は長く鳴り響いた。
花の香る聖堂で、彼女は静かに祈りを捧げていた。その姿は祝福ではなく、赦しを求めているように見えた。
ルーベンは誓いの口づけさえ拒絶した。彼女のまつげの震えを見逃さなかったのだ。
彼女は自分ではなく、忌々しい神に仕えている。
そんな女と体を重ねるなど、とうてい無理だと寝所をともにすることも拒み続けた。
そうだというのに、慎み深いつもりか、エミリアはそんなルーベンを決して責めなかった。それどころか、王太子妃としての務めを怠ることもない。
非の打ちどころのない彼女は民に慕われ、神殿は彼女の存在によって王権と結びついていた。




