忘れていた温もり⑧
長い冬も、あともう少し。封印の谷にも間もなく短い春がやって来る。
エミリアがここへ来て二カ月半。一面の銀世界だったミカエル領は、冬などまるでなかったかのようにやわらかな陽が注ぐ時間が増えてきた。
そんな陽を浴びながらも、エミリアの心の奥には悩みがひとつあった。
あの夜以降、レオナールは真の姿を見せてくれるようになり、夕食も一緒に食べることが増えたのはとても喜ばしいのだが……。
彼は変わらず毎夜、命を懸けて魔獣たちと戦っている。それはミカエル領の民のためであるとともに、この地より南にある王都への魔獣の侵入を防ぐためでもある。
この地で幽閉同然の暮らしを強いられてもなお、モルテン王国を守るという使命に燃えているのだ。国から忘れ去られた存在でありながら。
そうして彼が戦っている間、エミリアは祈りを捧げることしかできない。
(せめて、私にもなにかできることがあれば……)
暖炉の前で祈りを終えたあと、そんなことを考えていると、外からカーリンの声が聞こえた。
「エミリア様! ちょっと来てくださいませ!」
慌てた様子に、裾をつまんで駆け出すエミリアの後ろをシルバが素早く追いかける。
庭へ出ると、雪解けの土の上に小さな白い生き物が倒れていた。丸い体に長い耳、そして金色の瞳。うさぎに似ているが、その毛並みは淡い光を帯びている。
「……聖獣?」
「ミミナと呼ばれる聖獣です」
エミリアはすぐに膝をつき、手をかざした。
毛の間から滲む血。脚には裂傷があり、呼吸も浅い。
「かわいそうに……きっと、魔獣に襲われたのね」
手のひらに祈りを込める。やわらかな光が滲み出し、傷口を包んだ。
光が静かに消える頃、ミミナはかすかに身じろぎし、やがて目を開けた。
「大丈夫よ。もう痛くないわ」
エミリアが優しく語りかけると、聖獣は小さく鳴き、彼女の手のひらを鼻先で押した。
カーリンがその様子を見て感嘆の声を漏らす。
「まあ……また聖獣が、エミリア様に懐いております!」
「傷が癒えるまで、この庭で休ませてあげましょう」
そう言ってエミリアは自室から古い毛布を持ち出し、小さな寝床を作った。
その翌日からだった。まるで噂が広まったかのように、庭には新たな聖獣たちが次々と姿を見せた。
羽の折れた白鳥のような聖獣、角を欠いた子鹿、焦げ跡の残る獣たち。皆、どこかしらに傷を負っていた。
エミリアは日ごとに治癒を施し、カーリンとともに世話を焼いた。
癒えた聖獣たちはしばらく滞在したのち、再び森へ帰っていく。
「みんな、きっと傷が治る場所を探していたのね」
そう呟いたエミリアの瞳に、祈りの光が宿っていた。
そのとき、ふと心の奥でひらめいた。
「……そうだわ。聖獣たちのための場所を作りましょう」
「え?」
「聖獣のための治療院を開くのはどうかしら。祈りと癒しの小さな家。そうすれば、もっと助けられるもの」
「素敵ですわ! エミリア様らしいです!」
カーリンは両手を叩いて大賛成した。
その日の夕刻、エミリアはレオナールにそのことを話した。
レオナールはしばらく黙って聞いていたが、やがてゆるく目を細めた。
「……それは、よい考えだ」
「いいのですか?」
「もしかしたら聖獣たちはエミリアの聖なる力を感じ取って、この谷に集まってきているのかもしれない」
「私の、力……」
「そうだ。エミリアの祈りは、この谷の結界を強めている。聖獣たちも、それを本能で感じ取っているのだろう」
レオナールの声は低く穏やかだった。
「治療院を開こう」
「はい」
エミリアはうれしさいっぱいに大きくうなずいた。
翌日、エミリアとカーリンが並び、城の庭に木の看板を立てた。
そこには、美しい筆致でこう書かれている。
【聖獣の癒しの家】
「だけど、聖獣たちに文字が読めるかしら」
「読めなくても大丈夫です。エミリア様の癒しの力を嗅ぎ取るでしょうから」
「ふふ、そうね」
現にこの数日のうちにたくさんの聖獣が訪れている。
風に揺れるその板の前で、シルバが誇らしげに尻尾を振った。




