忘れていた温もり⑥
エミリアが辺境の城に来て二カ月が過ぎようとしていた。
雪はようやく止み、屋根の端から滴る雫が、月光を受けて細く光っている。
夜風にはかすかな土の匂いが混じっていた。春がほんの少しだけ顔をのぞかせている、そんな夜だった。
ふと胸の奥にざらつくような気配を感じて、エミリアは目を覚ました。
部屋の中はしんと静まり返っている。カーテンの隙間から漏れる光に誘われ、ベッドを抜け出して窓辺に立った。
雪解けの庭をひとりの男が歩いている。
「……誰?」
思わず声が出た。
長い外套の裾が濡れた地面を引きずり、歩みは明らかに重い。そして、ふと足を止めたかと思うと、その場に膝をついた。
この城には、ほとんど人が訪れないと聞いている。しかもこんな真夜中に――。
エミリアは外套を羽織り、そっと部屋を出た。
シルバが気づいてついてこようとしたが、静かに首を横に振った。
「大丈夫、すぐ戻るわ」
足音を忍ばせ、庭へ出る。雪はもう溶けかけており、黒い土の上に春の名残の霜が淡く光っている。
夜気の中、倒れ込むようにしている男の姿が見えた。外套の肩口が裂け、そこから覗く衣には赤い染みが滲んでいた。
「怪我をされていますよね」
駆け寄り、その顔を見た瞬間、息を呑んだ。
銀の髪。月光に照らされた横顔。その瞳の深い蒼が、かすかに揺らめいている。この世のものとは思えないほど美しい顔だった。
どこかで見たことのある目だったが、誰だろうか。ほんのわずかな時間の間に思考が忙しなく回る。
そして辿り着いた答えに、自分で首を横に振る。
(――まさか、そんなはずは)
エミリアは、その男にレオナールの面影を見たのだ。そしてなにより、彼は街で買った皮の手袋をしていた。
しかし昼間の、あの穏やかで年老いた彼のものとは違う。それに、目の前の姿は異形ではなかった。
だが、こんな真夜中にここにいる青年といったら、彼以外にない。
「……レオナール様、なのですか?」
震える声でそう問うと、男はゆっくりと顔を上げた。
苦痛の中でも、彼の瞳は驚くほど静かだった。
「見つかってしまったか」
微笑みが、月光に溶けるように淡く浮かんだ。
その笑みは、たしかにレオナールだった。
エミリアは躊躇う間もなく、彼の傍らに膝をついた。
「ひどい傷です。すぐに癒します」
両手を重ね、祈るように彼の肩へ触れる。白い光が手のひらから流れ出し、血の跡を覆うように包み込む。
すると、まるで雪が溶けるように、赤が淡く消えていった。
この地へ来てからというもの、エミリアは自分の力が少しずつ強くなっていくのを感じている。聖獣のシルバの存在が影響しているのかもしれないと自分なりに考えていた。
レオナールは目を閉じて、短く息を吐いた。
「不思議なものだな。キミの手は、冬の終わりの風のようにやわらかい」
「しゃべらないでください。今は安静に」
エミリアは胸を熱くしながらも静かに微笑む。治癒を終えると、腕を貸して彼を立たせ、なんとか寝室へ運んだ。
雪の残る回廊を渡るとき、春の匂いを運ぶ風がふたりの間をすり抜けていく。どこかで氷が砕け、水が流れる音がした。
ベッドに横たわったレオナールは、穏やかに息を整えながら目を閉じた。
昼の彼よりもずっと若く、瑞々しいほどに美しい青年の姿。それは年老いた姿の彼と、瞳も声も優しさも、たしかに同じだった。
「……夜には異形になると聞いていました。違ったのですね」
レオナールは目を開け、かすかに微笑んだ。
「異形か……。それを語るには、まだ夜が浅すぎる」
その答えは、やさしい拒絶でもあった。
それ以上は問わず、エミリアはそっと毛布を掛け、部屋をあとにした。




