忘れていた温もり⑤
その夜、食卓の上に並んだ温かなスープの皿は、ひとつ分だけ手をつけられぬまま冷めていった。レオナールの席は空いている。
「レオナール様は……?」
問いかけると、セルジュがわずかに目を伏せる。
「外の様子を見に行かれました。すぐにお戻りになるかと」
それ以上は語られない。その沈黙に、エミリアの胸の奥は静かにざわめく。
昼間、レオナールとの距離が少しだけ近づいたように感じたが、変貌した夜の姿を晒すまでではないのだろう。
今夜も夜気は冷たい。しかも相手にしているのは魔獣だ。
その姿を見たことのないエミリアには想像もつかないが、心配でたまらなくなる。
「セルジュさん、レオナール様は大丈夫なのでしょうか?」
一瞬だけ目を見開いたセルジュだったが、すぐに穏やかな表情を戻す。
「ご心配なのですね。ですが、強いお方です。ご安心ください」
エミリアを気遣っているのか、それとも本当に言葉の通りなのか。彼の声は静かで、いつも通りの落ち着きを湛えていたが、その奥にかすかな翳りが見えた気がした。
食後、エミリアは外套を羽織り、買ったばかりの手袋を着け、シルバを伴って庭に出た。
月が高く昇り、雪の庭を銀に照らしている。風のない夜だった。
だというのに、空気の奥にわずかな震えを感じる。遠くでなにかが軋むような音が響いていた。
「……シルバ?」
聖獣はぴたりと動きを止め、森のほうを見つめて低く唸った。毛並みが逆立ち、蒼白い月光を受けて銀炎のように揺らめく。
(殿下は……あの森へ?)
その答えは誰もくれないが、フェンリルの反応が雄弁に語っているようだった。
あの森で、なにかが起きている。戦いの気配が漂っていた。
冷たい風が頬を打つ。エミリアは思わず自分の胸を掻き抱いた。
昼間、馬車の中で癒やした彼の手の感触が、指先にまだ残っている。
想像も及ばない異形へと姿を変え、今まさに魔獣に立ち向かっているのだろうか。
シルバが小さく吠える。その声には恐れではなく、祈りのような響きがあった。
「……レオナール様、どうかご無事で」
月光の下、エミリアは静かに目を閉じ、祈りの言葉を紡いだ。
淡い光が彼女の手のひらから零れ、雪の上に小さな花の形を描く。その光はしばらく消えず、やがて風に溶けていく。
夜は深く、森の向こうで微かに雷鳴のような音が響く。
レオナールがどんな姿で戦っていようと、彼を支えていきたいと強く願わずにはいられなかった。




