忘れていた温もり③
やがて馬車が坂を下りはじめると、窓の外に小さな街の屋根が見えてきた。雪の白に包まれた家々のあいだから、人々の笑い声と焼き立てのパンの香りが漂ってくる。
「着いたようだな」
レオナールの声に、エミリアは顔を上げた。
彼の顔は疲れの色が薄れ、ほんのわずかに血の気が戻っている。
そっと手を離したが、彼の温もりはエミリアの手に優しく残った。
馬車が止まると、馬が吐き出す白い吐息が空に溶けていく。
雪をいただく山々に囲まれ、ミカエルの谷の麓にある小さな街が目の前にあった。
石造りの家々の屋根には薄く雪が積もり、通りには干し果物や毛織物、香草の束を売る露店が並んでいる。鐘の音が遠くで響き、人々の笑い声がその間を縫って流れていく。
エミリアが馬車を降りると、冷たい風が頬を撫でた。だが、その冷たささえどこか心地いい。
城の敷地以外の場所に立つのは、どれほど久しぶりのことだろう。
冬の最中ではあるが、市が行われていた。食べ物や陶器など、様々な露店が並んでいる。
「殿下、段差にお気をつけください」
手を差し出すと、レオナールは躊躇うようにしてからその手を取った。
年老いた指先はかすかに震えたが、エミリアが支えると彼は微笑んだ。
街の人々がふたりに気づき、道を開ける。
中には膝を折って頭を垂れる者もいたが、レオナールは首を振ってそれを制した。
「顔を上げよ。今日は、ただの買い物だ」
その言葉に、皆が少し戸惑いながらも微笑んだ。
エミリアもその空気に胸が温かくなる。
露店の女主人が手招きして、小さな籠を差し出した。
「お美しい手ね。でも、そのままじゃ冷えてしまうわ」
「ええ、ちょうど手袋を探しているの」
「まぁ、それならこれを見てくださいな」
女主人が差し出したのは、羊毛で編まれた手袋だった。雪のように白く、指先には小さな銀糸の刺繍が光る。
試しに手を入れると、驚くほど滑らかで、ぴたりと手に馴染む。
「似合っている」
レオナールの声が静かに響いた。
彼は杖で体を支えながら、エミリアの手元を見つめている。冬の日差しを受けたその眼差しはどことなくうれしそうだ。
「殿下の分も見つけましょう」
「私の?」
「ええ。夜の見回りのときも、きっと冷えるでしょうから」
その言葉にレオナールは苦笑する。
エミリアが微笑むと、レオナールの瞳がふとやわらいだ。
隣の店で、エミリアは厚手の革手袋を選んだ。外側は黒く、内側は温かな毛皮で覆われている。
「これなら、きっと殿下の手も温まります」
「ありがとう。しかし……私には少し贅沢すぎるな」
「贅沢ではありません。大切な方の手を守るものです」
そう言って差し出すと、レオナールは静かに受け取った。
彼の手のひらがエミリアの指に触れた瞬間、ふたりの間に流れる空気が少しだけ変わる。
穏やか陽光が雲間から差し込み、白い雪を金色に照らしていた。
「……不思議だな」
「なにが、ですか?」
「この姿になって、誰かに手を取られるとは思わなかった。それが、これほど温かいことだとは……」
エミリアは息を呑み、そして静かに笑みを浮かべた。
風が吹き、ひと筋の白髪がレオナールの頬で揺れる。それがなぜかとても美しく見えて、言葉が出なかった。
通りの片隅で子どもたちが雪玉を投げ合って遊んでいる。その笑い声はふたりの間に溶け、遠くで鐘の音が鳴った。どこまでも澄んだ音色だった。
「殿下」
「うん?」
「……この街の人たちは、とても穏やかですね」
「そうだな。だがらこそ、その穏やかさを守らなければならない」
レオナールの声は静かだが、その奥には並々ならぬ決意があるのを感じる。
彼がどれほどの代償を払ってこの地を守っているのか。エミリアは胸の奥でそっとその思いを受け止めた。
やがて、ふたりは街の外れの小さな茶店で休むことにした。
窓の外には雪をかぶった屋根、テーブルの上には香り高い林檎茶。レオナールは手袋を外し、手を温めながらぽつりと呟いた。
「今日という日を……思い出に残しておこう」
その言葉に、エミリアは小さくうなずいた。彼の指先がほんの一瞬、彼女の手に触れる。
その温もりは冬の終わりを告げる陽光のように、静かに心へ染みこんでいった。




