忘れていた温もり①
その日から、フェンリルはエミリアのそばを離れなくなった。
昼は彼女の歩く後ろをついて回り、夜になるとエミリアを守るように部屋の前に身を伏せ、灯火のように銀色の毛並みを月明かりに光らせて眠る。
しかしカーリンは時折、不安げにその光景を見つめていた。
フェンリルをこの谷で見たということ自体、なにかの〝兆し〟だと感じているからだろう。
そんなある日の昼下がり、レオナールが珍しく自室を出て、庭に面した温室でエミリアと茶を囲んだ。
セルジュとカーリンも離れた場所に控えている。
レオナールの老いた手が、震えながらも丁寧にティーカップを持ち上げる。
その白い指先は細く、光を透かすように弱々しいが、指輪ひとつしていないその手には凛とした気品があった。
フェンリルはふたりから少し離れた場所に座り、じっとこちらを見守っている。暖かな陽光の中、その銀色の毛並みが雪のように輝く。
レオナールはしばしその姿を見つめ、驚いたように小さく息を漏らした。
「あの獣は、フェンリルか?」
「はい。偶然、庭で傷ついているのを見つけて……癒しの術を少しだけ使いました。それから、なぜかずっと私のそばを離れないのです」
「フェンリルが人に懐くとは、あり得ぬことだ」
レオナールは小さく首を振った。その目に驚きが滲む。
「この谷に聖獣が現れるとは、妙な巡り合わせだな」
ティーカップを置きながら、レオナールは遠くの森を眺める。その表情には、深い憂いが宿っていた。
エミリアはしばらく言葉を探していたが、やがて意を決して口を開く。
「殿下、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
レオナールが視線を戻す。穏やかな目の奥に、一瞬だけ警戒の色が宿った。
「毎夜、どちらへお出かけなのですか」
静寂が流れた。
暖炉のない温室には、風の音とフェンリルが尻尾を払う音だけが響く。
やがて、レオナールはゆっくりと口を開いた。
「この谷の外れには、魔獣の群れが棲みついている。彼らは夜の帳に隠れて森を彷徨い、人の領域を侵すこともある。ミカエル領には谷の下に人々が暮らす小さな街があり、そこに足を踏み入れぬように退けているだけだ」
「魔獣を……殿下が?」
「ああ。この谷はモルテン王国の北端に位置し、魔獣の侵攻を防ぐための最前線でもある。王都が平穏でいられるのは、この地の静寂が保たれているからだ」
以前、転んだと言っていた傷を癒したときに感じた気配は、魔獣のものだったのかもしれない。
「ですが、結界が張られているはずでは……?」
モルテン王国には結界が点在している。
「昔から稀にそれを超えて現れる魔獣はいたが、ここ最近はそれが増えている」
レオナールの声には、疲労とも哀しみともつかぬ響きがあった。
(もしかしたら、陛下が神殿をはねつけるような真似をしたから……?)
結界の力が弱まっているのではないか。
おそらくレオナールが語るのは事実だろう。だが、この老いた身体で、夜ごと魔獣を退けることなどできるはずがない。
(やはり……夜になると、異形の姿に変わるのね)
しかし、その疑念を口にはできなかった。
レオナールの瞳の奥にあるものが恐ろしい魔の気配ではなく、むしろ人が人であることを守ろうとする静かな覚悟だったからだ。
今の老いたレオナールにも、異形に変わるという夜の彼にも、不思議と恐れも嫌悪もない。それどころか、呪われてもなお国を守ろうとする姿に今の国王にはない王族としての誇りが見えた。
(あの国王陛下と兄弟だなんて、信じられないわ……)
慣例を無視し、暴走しはじめたルーベンを思い浮かべ、エミリアは首を横に振った。
「どうか、無理はなさらないでください」
エミリアがそう言うと、レオナールがわずかに微笑む。
その笑みはどこか哀しくも温かく、炎の残り火のように優しい。
「心配はいらぬ。……ところで、ここでの暮らしでなにか不自由はないか?」
「セルジュさんとカーリンにもよくしていただいておりますので、特にありません」
エミリアがそう答えてすぐ、カーリンが「それなら手袋をエミリア様へ!」と声をあげた。
レオナールはゆっくりとカーリンを見て目を瞬かせる。
「これ、カーリン、藪から棒になんですか」
セルジュに制され、「申し訳ありません!」とカーリンは頭を下げたが、レオナールが問う。
「手袋?」
「はい。お庭をお散歩されるときに手が冷えるだろうなって」
雪が降っていないとき、エミリアはよく庭を散歩していた。手がかじかむのは感じていたが、それをカーリンが気づいていたとは。
レオナールがエミリアを見る。〝そうなのか?〟と目で尋ねていた。
「たしかに冷えますが、我慢できないほどではありませんので」
わざわざ用意してもらうほどのことではない。エミリアは首を横に振った。
「では街に買いに出るのはどうだろう」
「街に?」
思いがけない言葉に心が小さく弾む。ここへ来て一カ月、城の敷地から出たことはない。
王都にいた頃、神殿で学んでいたときも王太子妃となってからも、気安く出かけられなかったため、出かけるという行為自体がないに等しかった。
それと同時に、こんな北の外れに街があるというのも驚きだ。
神殿では国の成り立ちやさまざまな地域について学んだが、ミカエル領についての記述はほとんどなかった。国にとってこの地は、呪われた王子を封じ込めた、忌むべき場所という認識なのかもしれない。
「セルジュ、カーリン、エミリアを街へ連れていってやってくれ」
「承知いたしました」
「はい!」
セルジュが恭しく胸に手をあてれば、カーリンは元気よく手を上げる。
ふたりが一緒に行ってくれるのはありがたいが――。
(殿下は行かれないのかしら……)
毎夜、魔獣の討伐に出て疲労しているのはわかっている。老いた体で馬車に乗るのが大変なのも承知している。
しかし――。
「殿下も一緒に行きませんか?」
街へ行くなら、レオナールも一緒がいいと思ったのだ。
レオナールが目尻に深く刻んだ目を見開く。そんな誘いを受けるとは思ってもいない表情だ。
「私が介助いたします。馬車に乗っている間、殿下の疲れが取れるよう治癒の祈りも捧げますから」
セルジュとカーリンが目を輝かせる。
「殿下、エミリア様とお出かけになってはいかがですか? 幸い雪もやんでおりますし」
「ぜひエミリア様に手袋を選んで差し上げてください!」
ふたりからの後押しに、レオナールが考え込む。
「いや、しかし迷惑をかけるわけにはいかぬ」
「迷惑だなんて。私は殿下と街へ行きたいです」
レオナールの目に驚きと、わずかに喜びの色が滲んだように見えた。
三人の言葉に、レオナールがようやくうなずく。
「……では、そうしよう」
お茶を飲み干し、立ち上がろうとした彼をエミリアが支える。
「世話をかけるな」
「いえ、私になんなりとお任せくださいませ」
この一カ月の間、接してきたレオナールの静けさにエミリア自身、心が凪いでいくのを感じていた。彼のそばにいると、不思議と気持ちが安らぐのだ。元夫である国王に追放された悲しみを癒すには十分なほど。
それはエミリアが、生まれて初めて覚える感覚だった。




