辺境の生活⑦
それからというもの、レオナールが怪我をして戻る夜が幾度か続いた。
手に切り傷を負っていたり、袖口に焦げの跡がついていたり、まるでなにかと戦っているようだった。
エミリアが治癒の祈りを向けるたび、彼は決まって「すまぬな」と言って目を伏せる。その声の奥には、感謝よりも罪悪に似た響きがあった。
理由を尋ねたことはない。だがエミリアは感じていた。
この谷には、なにかがいる。
それがどういったものなのかわからないが、ただ祈ることしかできなかった。
そんな日々が続いたある昼のこと。珍しく空が晴れ、白銀の庭に陽が差していた。
風は冷たくとも光の粒が雪の上でちらちらと瞬き、世界そのものが息をしているよう。
エミリアが日差しを感じようと庭へ出たときだった。ふとどこからか低く、くぐもった鳴き声が聞こえてきた。
犬のようでいて、どこか人の声にも似ている。耳を澄ますと、庭の奥から聞こえた。
(……動物?)
音のするほうへ足を進めるたびに雪がきしりと鳴る。
霧の中、倒木の影の下に塊のようなものが見えた。
「えっ……!」
思わず声を漏らす。それは獣だった。
灰と銀を溶かしたような毛並みの大きな体を地に伏せ、肩で荒い息をしている。真っ白な雪に赤い血が滲み、それは痛々しいほど鮮やかだった。
「あなた、怪我をしているのね」
思わず膝をつき、そっと手を伸ばす。
その瞬間、獣が牙を剥いた。低く喉を鳴らし、金の双眸がエミリアを射抜く。
だが次の刹那、その瞳が揺れた。怯えているのだ。
「怖くないわ。……大丈夫」
手のひらを広げ、指先に光を灯す。淡い金色の祈りの光が、冷たい空気に溶けていく。
それが獣の傷口を包んだ。毛の下で血の滲みが静かに止まり、荒かった息がゆっくりと整っていく。
やがて獣は低く喉を鳴らし、顔を伏せる。その仕草は感謝のようにも見えた。
背後で雪を踏む足音がし、振り返るとカーリンが駆けてきた。
「エミリア様! 危のうございます、その子は――!」
「大丈夫よ。もう落ち着いているわ」
カーリンは息を呑み、その場に立ちすくんだ。
「フェンリル……」
「フェンリル?」
「はい。聖獣です。北の山々に棲むといわれる神獣……普通は、人に懐くことなど決してありません」
聖獣。その言葉にエミリアは思わず目を見開いた。
神殿にいた頃、書物で読んだことはある。聖なる存在に近い生き物だと。王家に加護をもたらす存在であると同時に、神の怒りを告げる者でもある。
だが実際に見るのは初めてだった。
「あなたが聖獣……」
呟くと、フェンリルはゆっくりと立ち上がった。
雪を踏む音が静かに響く。そして、その大きな頭をエミリアの肩にそっと寄せた。
「……っ」
温かい。それは冬の中に差し込む春のような温もりだった。
やわらかな毛がエミリアの頬をくすぐったため、思わず手を伸ばしてフェンリルの頭を撫でた。
「おりこうね」
フェンリルはくぅんと鼻を鳴らした。
「信じられません……フェンリルが、人に触れるなんて……」
カーリンが呆然としながら呟く。
「きっと寂しかったのね」
エミリアは小さく笑って、もう一度フェンリルを撫でた。
「私と同じだわ。王都にいた頃からずっと……」
フェンリルは静かに尾を振り、雪の上に丸くなった。その瞳は人の心を映すように穏やかだ。
「古くからこう言われております。『フェンリルが雪を踏むとき、王家の血は神の手を離れる』と。王家が堕ちる前に、必ずこの獣が姿を現すのだと」
震える声で言うカーリンの言葉に、エミリアは小さく息を呑んだ。
(王家が堕ちる……)
国王ルーベンが神殿との契約を打ち切り、その権威を自分だけのものにしたことが関係しているのかもしれない。
神の怒りが、聖獣に〝雪を踏ませた〟のではないか。
しかし、その白い巨体を前にしても不思議と恐怖はなかった。フェンリルの瞳が、どこか懐かしい温もりを宿していたからだ。
「そして、もうひとつの言い伝えもあります」
カーリンが躊躇いがちに言葉を続ける。
「フェンリルは、真の聖女にのみ懐くと。神の選ばれし魂にのみ、膝を折ると――」
雪が舞う。エミリアの手の上で、フェンリルは静かに目を閉じた。
その姿を見つめながら、エミリアの胸の奥にかすかな灯がともる。
(……私が真の聖女だと言うの? いえ、まさか。こんな微力では聖女と名乗るのもおこがましいわ。だけど神がまだ、私を見捨てていないのだとしたら……)
冷たい風が頬を撫でていく。エミリアは、深い色に沈んだ空を見上げた。




