プロローグ
風は冷たく、山の裾野に影が広がる。
世界は静まり返り、ただ風の音だけが耳に届く。
王都から遠く離れた辺境、〝封印の谷〟と呼ばれるその地に、ひとつの城が佇んでいた。
灰色の石壁は霧に溶け、まるでこの世の残響のように静まり返っている。
その日、馬車が一台、ゆっくりとその城門をくぐった。
車輪が泥をはね、扉が開く音がやけに響く。馬車から降り立ったのは、ひとりの若い女性だった。
白い外套の裾に雪交じりの泥がつき、それでも背筋をまっすぐに伸ばしている。その瞳には恐れよりも、覚悟があった。
彼女の名は、エミリア・トレンテス。つい三日前まで王妃だった女である。
迎えに出た老執事が頭を下げ、彼女を城の奥へと案内する。
厚い扉の向こう、暖炉の灯る広間にはひとりの男が座っていた。
その姿を見た瞬間、エミリアの息が止まる。
それも無理はない。男の姿は、齢七十にも見える。深く刻まれた皺、白髪は雪のように色を失い、杖を手にして座す姿は王族というより亡霊のようだった。
「……お初にお目にかかります。私は、陛下の命により――」
エミリアが膝を折って頭を下げると、男は小さく首を振った。
その仕草は驚くほど穏やかで、瞳だけが静かに光を帯びている。
「聞いている。王都を追われた元妃だな」
「……はい。正式に離縁状をいただきました」
「そうか」
男はひと言そう呟くと、暖炉の火を見つめた。
燃える薪の爆ぜる音が、沈黙を区切る。
やがて彼はゆっくりと顔を上げ、エミリアを見つめた。
「怯えてはいないのか。呪われた王子のもとに嫁ぐことを」
穏やかに問われ、エミリアは唇を結んだ。
王都で散々流れた噂が脳裏をよぎる。目の前の男は魔獣討伐の際にかけられた呪いにより、昼は醜い老人、夜はさらに異形に化すという。
だが、彼の声には恐怖を誘う響きなどなかった。ただ、深い哀しみと静かな慈しみが混じっている。
「恐ろしくは、ありません」
「なぜだ?」
「殿下の目が……嘘を言わない方のものだからです」
その言葉にレオナールは一瞬、息を呑んだ。
重い空気を割るように、暖炉がぱちりと火の粉を散らす。
やがてレオナールは静かに微笑んだ。
「遠路をようこそ。我が名はレオナール・アルタミラ。そなたをここに迎えるよう、王命を受けている」
声は低く、枯れてはいるが、不思議と威厳があった。




