7、何もできない自分
アダン様と軽く軽食をとったあの夜から、私は体調を崩していた。
頭痛が続き、私の息も荒くなる。そんな私を看病してくれたのは、イルゼさんだった。額に感じる冷たい布……温かくなってしまえば、また冷たい布へと交換してくれる彼女に、私は何度もうわ言のようにお礼を告げた記憶が朧げにある。
そしてたまに目を開けるとイルゼさんではなく、アダン様が目の前にいることもあった。彼も私の口に水を入れたり、布を変えてくれたりと手を尽くしてくれたようだ。感謝してもしきれない。
お医者様の言葉通り、私はその日から一週間ベッドの上で過ごしていた。
発熱している時はベッドの清掃を控えていたようだったけれど、私の熱が落ち着き意識がはっきりし始めた数日は、毎日イルゼさんが清潔にしてくれる。清掃をする時は、アダン様とイルゼさんが訪れるのだが……。動けない私をアダン様が抱き上げ、イルゼさんがその間にベッドを清掃する形をとっていた。
抱き上げられる度に、私は顔が真っ赤になっていたはずだ。だって、私は人生で初めて男性に触れられたのだから。そのためか、私の心臓の鼓動が通常よりも大きくなっているのだ。私はそのことに気づき、恥ずかしさから少し身体を強張らせる。
私はアダン様を一瞥すると、彼は無表情でイルゼさんの仕事の様子を見ていた。どうやらアダン様は私を抱いていても、何も思うようなことはなさそうだ。まあ、そうよね……きっと病人枠なのでしょう。
残念、そんな気持ちが出てきたことに私は驚いた。何故、私は残念だと思ったのだろうか。
しかし、それを真剣に考えようとする前に、イルゼさんの仕事が終わってしまったようで、私はベッドへと降ろされる。普段のように私はアダン様とイルゼさんにお礼を告げた。けれども、少しだけアダン様に対するお礼が口篭ってしまったの……気づいていないようなので良かったわ。
そんな小さな疑念の湧いた日々が過ぎ去り、私はベッドから立てるようになっていた。
ただ……一週間寝たきりだったので、体力は落ちてしまっているようだ。私が歩こうとすると、生まれたての子鹿のようにヨタヨタとしてしまう。倒れそうになった私はイルゼさんに支えられて事なきを得た。
「エーヴァちゃん、一週間寝ていたんだもの。いきなり歩いたら、倒れちゃうわ!」
慌てたのか少し声を荒げたイルゼさんに、私は謝る。
「すみません……ちょっと身体を動かしたくて……」
私は何をやっても駄目なのか……そう思った私は無意識に俯いていた。
「ああ、ごめんなさい。責めているわけではないのよ? 危ないから気をつけてね、って話なだけ。良ければ、私が支えるわ。一緒に王宮内を歩いてみる?」
にこやかに微笑むイルゼさん。
私は恐る恐る彼女の表情を窺う。アダン様に私の世話を依頼されている、とイルゼさんは話すけれど、彼女は私の世話以外の仕事もあるはずだ。そんなに私に関わっていいのだろうか、と心配になってきた。
「ですが、お仕事は……?」
不安そうに告げる私に、イルゼさんは目をまたたく。そして私の思いを察したのか、満面の笑みを浮かべた。
「私の仕事の優先順位はエーヴァちゃんの世話よ? だから大丈夫!」
「……ありがとうございます」
イルゼさんの曇りない笑顔。それに釣られた私は、心からの感謝を述べていた。
それから数日。
歩いて二日ほどは支えられながら歩いていた私であったが、それ以降は一人で問題なく歩けるようになっていた。ただ、王宮は広く道を覚えていない私のために、いつもイルゼさんは散歩のお供をしてくれる。
最近はアダン様もお忙しいのか、私の元に顔を出す機会が減った。
そのことに無意識ではあるが寂しさを覚えていたのかもしれない。レナートさんが私の部屋へ訪れた時、思わずアダン様の様子を訊ねる言葉が口を突いて出ていた。
最初は目を丸くして私を見るレナートさんだったが、私の表情で何かを察したのか……イルゼさんへと顔を向けた。
「イルゼ、あなたは確か執務室に昼食を運ぶ係でもありましたね?」
「ええ、そうです」
イルゼさん曰く……私の部屋の途中に執務室があるらしい。そのため、私の食事を運ぶついでに、執務室へと食事を届けているのだとか。むしろ私の方を「ついで」にしてほしい……そう思ったけれど、そこは「私の最優先はエーヴァちゃんなので」と言われてしまった。
胸を張って誇らしそうに話すイルゼさんを横目に、レナートさんは肩をすくめる。
「話を戻しますが……その時にエーヴァさんも連れてくると良いでしょう。そうすれば、少しはお話もできるでしょうから」
「ありがとうございます……」
この機会にアダン様へと改めてお礼を言わなければ。
私はここに来てから、アダン様によくしてもらっているけれど……私は何を返せているのだろうか。
『お前は生きているだけで、邪魔だ!』
一瞬脳裏をかすめたのは、公爵の言葉。私は役に立っていない……いや、何もない私に価値などあるはずがない。今でさえ、ただ生きるための食事や部屋を消費するだけの女なのだ。
心のどこかで私は他人から必要とされたい、と思っているのだろう。けれども、私はどうしたら何ものにも代えがたい存在になれるのかしら。
私の心の中にある闇の部分が、少しだけ顔を出したような気がした。
翌日、イルゼさんと共に私はアダン様の元へと訪れた。
最初は私が入ってきたことに驚いたのだろう、まばたきを何度か繰り返していた彼だったが、私が改めて今までのお礼を述べると来た理由に納得したらしい。私はイルゼさんから事前にお墨付きをもらっていた紅茶を淹れる。私が今できること、と言えばこれくらいだからだ。
「よろしければ……どうぞ」
私は淹れ終えた紅茶をアダン様の目の前に置く。そして、別の机に座っていたレナートさんにも感謝を込めて紅茶を差し出した。するとアダン様は差し出した紅茶と私の顔を何度か交互に見ており、少々挙動不審だ。
もしかしたら私の紅茶が不味そうに見えたのだろうか……と思い、イルゼさんに改めて紅茶を淹れてもらうように提案しようとしたのだが、その前に彼がつぶやいた。
「君は……紅茶を淹れられるのか……?」
「はい」
私が頷くと、アダン様の目が一瞬大きく見開く。
その後すぐに紅茶へと視線が戻り、彼がティーカップへと手を伸ばした。お口に合うだろうか……と彼の一挙一動を見つめてしまう。アダン様はそんな私の視線をもろともせず、優雅に紅茶へと口付けた。
彼の喉仏がゆっくりと動く。そしてアダン様はティーカップに残っている紅茶を見て、声が漏れた。
「うまい……」
初めて言われた言葉に私は顔が赤くなる。いつ淹れても『不味い』と言われて捨てられていた私の紅茶を……飲んでくれる人がいることに胸が温かくなった。心なしか、アダン様の口角が少し上がっているような……いや、それは私の願望ね。
紅茶を半分ほど飲み終えたアダン様は、ゆっくりと向き直る。そして私と視線を合わせてから言葉を紡いだ。
「また……淹れてくれるだろうか」
思わぬ言葉に、私は息を呑む。アダン様の視線はその言葉と共に逸らされていたけれど……彼は珍しく頭を掻いていた。もしかしたら、照れているのかもしれない……?
私は彼の言葉が嬉しかった。だから自然に口角が上がっていたようだ。
「はい」
声も少しだけ、普段よりも上擦っているような気がした。
軽い食事を終えた後、私はイルゼさんと共に食器を返却し二人で部屋へと帰ろうと廊下を歩いていた。曲がり角に差し掛かり、左へ向かおうと足を伸ばすと……遠くから、誰かが走っているような足音が聞こえる。
そこまで大きな音ではなかったので、気にせずに私も一歩足を前に出したところ、身体に衝撃を受けた。
「エーヴァちゃん!」
イルゼさんの叫び声が廊下に響き渡る。私は勢いで後ろに仰け反ってしまう。ありがたいことにイルゼさんが後ろに居たからか、私の肩を支えてもらうことができたので、ひっくり返ることはなかったが。
ただ左足に直撃したためか、足首が痛い。もしかしたら、反動で捻った可能性もある。幸い、歩けないほどではなさそうだ。
ぶつかったものはなんだろうか、と前を見ると、そこにいたのは男の子らしき年齢の子。
彼は最初お尻をさすっていたが、私が彼を見ていることに気がつくと、顔を歪めて睨みつけてくる。その姿にイルゼさんは目を吊り上げて男の子に注意をした。
「ノア、駄目じゃない! 廊下は走るなって言ったでしょう?」
ノアと呼ばれた男の子は、目尻に涙を溜めていた。
「気づかなくて、ごめんなさい。大丈夫でしょうか……?」
私は彼に手を差し出すが、ノアくんは私を敵意のこもった眼差しを向けた後、手を払いのけた。
呆然と立ち尽くす私の耳に、イルゼさんの怒った声が聞こえてくる。
「ノア! エーヴァちゃんに謝罪しなさい……!」
「やだ!」
ノアくんは私を忌々しげに見据えた後、舌を見せてくる。私は久しぶりの悪意に身体が固まってしまった。




