第五話:闇に買われた「処刑命令書」
闇オークションの会場は、王都の地下深く、熱気と欲望の臭いで満ちていた。周囲には怪しげな商人や裏社会の人間が集う中、一人の青年が静かに立っていた。
その一角にいたのは、知的な学者を思わせる、目立たない茶髪の青年。落ち着いた色のローブを纏い、顔の輪郭は平凡だが、その濃い緑色の瞳だけが、周囲の光の中で冷たい知性を放っている。
この青年こそ、エリザベスが魔導具と化粧で作り上げた偽装だった。「エリザベス・ローゼンシュタイン」は辺境の崖から消え、今ここにいるのは知識を商う若き商人だ。彼女は、公爵令嬢時代に秘密裏に用意した逃亡資金を手に、この裏社会の舞台に立っていた。
数点の取引が終わり、会場の熱気が最高潮に高まる中、オークショニアが目玉商品を紹介した。
「――さて、今宵の特別出品! ヴォルケン王家秘蔵……いえ、王家の『闇』そのものと言えるでしょう! 古の文献、『白き竜の鎮魂と、黒き竜への供儀について』! 王家の繁栄を支える『人柱の選定』と『解体の儀式』に関する、門外不出の記録です!」
周囲がざわめく中、エリザベスの心臓が冷たく跳ねた。
やはり、そうだったのだ。 ブラックドラゴンの暴走を防ぐためのシステム。それは、ホワイトドラゴンの血を引く者を「伴侶」として迎えるなどという生易しいものではなく、物理的に命を削り、炉にくべるための「解体新書」だったのだ。
(やっぱりね。私の勘は当たっていた。クロード様が『いらない』と言っても、国には私を殺すためのマニュアルが完備されている)
彼女が、追跡者となったクロードを出し抜き、かつ「この国を敵と認定させる」ために必須の証拠が、そこにあった。
競り合いが始まるや否や、彼女は決着を急いだ。
「一万五千ゴールド!」
会場が再び、水を打ったように静まり返った後、爆発的なざわめきに包まれた。「王家の秘密」というきな臭い品が高額になるのは当然だが、一気に予想を超えた金額になったことに、会場中が困惑する。
(フフフ。勝負所にためらうなんてことは愚の骨頂。勝負は一気に決めるものよ!)
これまでの『完璧な淑女』エリザベスならば、このような無謀な勝負に出ることはなかっただろう。国を捨て、身分を捨て、『生贄の運命』から解放された今の彼女は、生きている実感と高揚した愉悦に包まれていた。
「一万五千ゴールドにて、落札!」
エリザベスは、自らの「処刑命令書」であり、同時に国を滅ぼすための「起爆剤」となる資料を、鮮やかに手中に収めたのだった。
(さあ、手に入れたわ。アリオス様、これを見れば貴方も認めざるを得ないでしょう? 私たちが仕えるこの国が、どれほど醜いかを)
資料を手にし、代金を支払い終えたエリザベスは、偽装した学者の姿のまま、会場の裏通路を急いでいた。資料は特殊な魔導具で厳重に保護されている。
(ふふ、資料を手に入れたわ。後は、追跡者を撒いて、安全な場所で分析するだけ)
しかし、彼女の背後から、複数の人影が追従してくる気配があった。その足音は、裏社会の人間特有の、獲物を追い詰める焦燥を含んでいる。
「待ちな! その資料、お前のような小僧が持つには危険すぎる代物だぜ!」
追っ手の声に、エリザベスは足を止めず、口元に薄い笑みを浮かべた。
(来たわ!)
彼女は立ち去る前に、会場の構造と追っ手の人数を既に把握していた。
エリザベスは、ポケットに忍ばせていた小型の魔導薬を、追っ手との間の通路の隅に投げつけた。
シュウッ!
その魔導薬が砕けると、床に設置されていた換気のための排気口から、濃密な「睡魔の煙」が噴出した。これは、オークション会場の空調システムを事前に分析し、換気口に作用するように調合された、彼女の自作の薬だった。
「ちくしょう! 煙だ!」
追っ手たちが一斉に咳き込み、視界を奪われ、その場に崩れ落ちる。
エリザベスは、咳一つせず、煙の中を颯爽と駆け抜けた。彼女が纏うローブには、換気システムを計算した特殊な香料が染み込ませてあり、彼女だけは影響を受けない。
(クロード様。私は決して、貴方が想像するような 『力任せの悪女』 ではないわ。 『知略』 こそが、私の最も危険な武器よ)
彼女は闇オークションの裏口を抜けると、王都の闇の中へと姿を消した。その手には、クロードの最大の秘密が握られていた。
追っ手のうめき声を背に、エリザベスは複雑に入り組んだ路地裏を疾走していた。 心臓が早鐘を打つ。恐怖からではない。計画通りに事を運べた達成感からだ。
(完璧だわ。このまま地下水路を使えば、地上に出ることなく隠れ家へ……)
角を曲がろうとした、その瞬間だった。
ドクン。
エリザベスの全身の毛が逆立った。 生物としての本能が、足を止めろと警鐘を鳴らしたのだ。 目の前の空間が、質量を持った「闇」で埋め尽くされているような圧迫感。
「……いい買い物をしたな、若き学者殿」
頭上から、楽しげな、けれど絶対的な支配者の声が降ってきた。
エリザベスが息を呑んで見上げると、路地裏の壊れかけた屋根の上に、彼が立っていた。
月光を背負い、夜闇よりも深い漆黒のマントを靡かせる、美しき怪物。
「ク……ッ!?」
(嘘でしょう!? 匂いも、姿も、魔力さえも完全に偽装していたはずなのに! どうして……!)
クロードは音もなく地面に降り立った。 エリザベスは反射的に退がろうとしたが、背後は壁。逃げ場はない。 彼はゆっくりと歩み寄り、平凡な青年の顔をしたエリザベスの頬に、冷たい手を触れた。
「どんなに姿を変えようと、その魂の味までは隠せまい。……見つけたぞ、私の愛しい共犯者」
変装など、彼には薄紙一枚ほどの意味もなかったのだ。
エリザベスの背筋に悪寒が走る。捕まる。連れ戻される。そして、永遠に檻の中へ――。
彼女は懐に手を伸ばした。護身用の短剣と、竜の嗅覚を麻痺させる激臭玉がある。これを使えば、一瞬の隙くらいは……!
だが、クロードの視線は、彼女の懐ではなく、彼女が抱きしめている「資料」に向けられていた。
「……ほう。それが目当てだったか」
彼はエリザベスの手首を掴むこともなく、ただ愉快そうに目を細めた。
「『白き竜の鎮魂』……王家の恥部であり、お前の処刑手順書だ」
「……知って、いたの?」
思わず地声が出そうになる。
クロードは、自分が殺される手順を知っていて、黙認していたのか?
「ああ、知っていたとも。だが、俺には不要な紙屑だ」
クロードは、エリザベスの頬から手を離し、一歩退がった。
道が開いた。
「行け、エリザベス」
「……え?」
「その資料を隅々まで読むがいい。そうすれば分かるはずだ。お前を殺そうとしている『本当の敵』が誰なのか。……そして、この世界で唯一、お前を生かそうとしているのが誰なのかをな」
彼は捕まえない。
それどころか、まるで「答え合わせの時間」を与える教師のように、慈悲深く彼女を解放したのだ。
「勘違いするなよ。逃がすのではない。……お前が自ら、俺の元へ戻ってくるのを待つのだ」
その傲慢すぎる言葉に、エリザベスの硬直が解けた。
恐怖よりも、反骨心が勝る。
(戻ってくるですって? ……ハッ、いい気なものね!)
エリザベスは懐から「激臭玉」を取り出すと、クロードの足元に力いっぱい叩きつけた。
パンッ!
強烈な刺激臭を含んだ煙が充満する。竜の鋭敏な鼻には劇薬となるはずだ。
「誰が戻るもんですか! 私は私の足で、未来を選ぶわ!」
エリザベスは煙幕に紛れ、全力で駆け出した。
背後からは、苦悶の声ではなく、腹の底から響くような愉快な笑い声が聞こえてきた。
「ハハハ……! そうだ、足掻け! その足掻きこそが、国を滅ぼす狼煙となる!」
エリザベスが角を曲がり、姿を消した後。
クロードは煙を片手で払い除け、路地の闇に向かって冷たく告げた。
「……さて。ネズミは逃がしてやったぞ。次はハイエナの番だ」
路地の陰から、エリザベスを追っていた「別の集団」――オークション会場には入れず、外で待ち伏せしていた王家の執行人たちが、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
クロードは、金色の瞳を細め、残虐な笑みを浮かべる。
「俺の婚約者の買い物を邪魔しようとした罪……万死に値するな」
直後、路地裏に絶叫すら許さぬ漆黒の炎が走った。




