最初の一筆
翌朝。 オフィスの自動ドアを抜ける足取りは、昨日までと何も変わらない。 けれど、アオイの心臓だけが、まるで初めてこの場所を訪れたかのように、トク、トク、と大きく脈打っていた。
自分のデスクに向かう通路の先に、カレンの背中が見える。 すでに席に着き、静かにPCを立ち上げている横顔。
今だ。言うなら、今しかない。
昨夜、不器用な笑顔を作った、あの唇。 今は緊張に、か細く震えている。 息を吸う。 まるで清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、アオイは声を絞り出した。
「…おはよう、ございます」
それは、オフィスに響くキーボードの音にかき消されてしまいそうなほど、小さな声だった。 カレンが、ゆっくりとこちらを振り返る。 アオイは、咄嗟に視線を逸らしてしまいそうになるのを、必死で堪えた。
驚いた顔は、なかった。 カレンはただ、ほんの少しだけ目を見開くと、次の瞬間には、柔らかく微笑んでいた。 それはまるで、咲きかけの蕾が、朝の光を受けてゆっくりと開くような、自然な微笑みだった。
「おはよう」
たった四文字。 けれど、その声は昨日までのどんな言葉よりも、温かく、確かにアオイの心に届いた。
アオイは小さく会釈を返すと、自分の席に着いた。 窓から差し込む朝日が、デスクの上を金色に照らしている。 それは昨日までと同じ光のはずなのに、今日はなぜか、ほんの少しだけ温かいように感じられた。
確かな繋がりを感じさせる、新しい朝だった。
自席に戻ったアオイはPCを立ち上げる。 画面には、昨日まであれほど憎らしく見えていたデザイン案が映し出される。 彼女はしばらくそれを見つめた後、無意識にマウスを動かし、デザインの片隅に、ほんの少しだけ「自分らしい」と思える修正を加えた。
それは誰のためでもない、自分自身のための、再生の第一歩だった。




