予期せぬ来訪者
どれくらいの時間が経っただろうか。 涙に濡れた頬が、オフィスの乾いた空気で冷たくなり始めていた。 アオイが、ガラスに映る自分から視線を外せずにいる、その時だった。
カチャリ。
背後で、静かすぎるほど静かな音がした。 オフィスのエントランスドアが、ゆっくりと開く音。 自分の嗚咽に紛れて、気づかなかった。 アオイの心臓が、どきりと大きく跳ねる。
足音が聞こえた。 ヒールの音ではない。スニーカーの靴底が、リノリウムの床を滑るように進む、柔らかい音。 その足音は、まっすぐ、こちらに向かってくる。
アオイは、息を飲んだ。振り返ることができない。 ガラスに映る、涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔。 こんな姿、誰にも見られたくない。
足音の主は、アオイの数メートル後ろで、ぴたりと止まった。 忘れ物を取りに戻ってきたカレンだった。デスクの上に置き忘れたスマートフォンに気づいたのだ。 彼女は、窓際に立つアオイの背中と、ガラスに映るその顔を見て、すべてを察した。
驚かせないように。怯えさせないように。 カレンは、息をするのも忘れるくらい、慎重に、ゆっくりと、アオイの方へと歩みを進めた。 まるで、傷ついた小鳥に近づくように。 一歩、また一歩と、その距離を静かに縮めていった。
しかし、カレンはアオイに声をかけなかった。 ただ、その横を静かに通り過ぎる。 その足音は、オフィスの奥にある給湯室へと向かっていた。
アオイは、動けないままだった。
やがて、給湯室から戻ってきたカレンの気配がする。 彼女は、アオイのデスクの端に、何かを置いた。 陶器が、硬質なデスクの天板に触れる、ほとんど聞こえないような、ごくわずかな音。
そして、カレンは、アオイの隣の空席になっている椅子を、静かに引いた。 キー、というキャスターのかすかな音を最後に、再び静寂が訪れる。
アオイが、恐る恐る視線だけを動かすと、デスクの端に、白いマグカップが一つ、ちょこんと置かれていた。 中からは、湯気がうっすらと立ち上っている。
そして、その隣の椅子に、カレンが静かに座っていた。 彼女は何も言わない。 ただ、アオイと同じように、窓の外の夜景を、じっと見つめているだけだった。




