夜と、窓と、涙
ようやく、今日の分の修正作業が終わる。 ファイルを保存し、アプリケーションを閉じる。 カタ、という最後のクリック音が、一日の終わりを告げた。
途端に、自分を守ってくれていた「仕事」という名の薄い膜が、はらりと剥がれ落ちる。 むき出しになった心が、急に心細さに震え始めた。
アオイは、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 向かう先は、あの大きなガラス窓だ。
一歩、また一歩と、床を滑るようにして窓際に近づく。 目の前に広がる、巨大な夜景。 遠くの赤い航空障害灯が、ゆっくりと点滅を繰り返している。 まるで、この巨大な都市の、か細い脈拍のようだ。
そっと、指先でガラスに触れる。 ひやり、とした夜の冷気が、指から腕へと伝ってきた。 生き物の温度ではない、絶対的な無機質の冷たさ。
ガラスの表面には、無数の光の点が映り込んでいる。 そして、その光の海の中に、ぼんやりと佇む人影があった。
自分だ。
見つめていると、不意に、ガラスの中の自分の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。 夜景の光が、滲んで揺れる。
おかしいな、と思った時にはもう、遅かった。 頬を、熱い雫が伝っていく。 今までずっと堪えていたものが、堰を切ったように、次から次へと溢れ出してくる。
ガラスに映っていたのは、都会の夜景と、それに重なるようにして、涙で歪んだ自分の顔だった。
鏡のように、夜景を映し込む青いガラス。 そのガラスに映る「泣き顔の自分」から、アオイは目が離せなかった。
情けなく歪んだ口元、赤く腫れた目、次から次へと流れ落ちる涙。 それは、見たくもない、本当の自分の姿だった。
心の奥底から、嗚咽がこみ上げてくる。 必死に唇を噛んで堪えようとしても、漏れ出してくる声を止めることはできない。
私の声は、どこにも届かない。
誰にも。何にも。 この広い世界の、誰一人として、私の声を聞いてくれる人はいない。 心の中で叫んでも、喉を震わせて言葉にしても、それは厚いガラスに阻まれて、誰にも届くことなく消えていく。
絶望が、冷たい水のように、足元からゆっくりと体を満たしていく。 息ができない。指先一本、動かせない。
アオイは、ただガラスに映る自分を見つめながら、静かに、深く、沈んでいった。




