過去の決意
ヘッドフォンの遮音性能は完璧ではなかった。 くぐもった音の向こうから、後方のデスクで始まった同僚たちの談笑が、微かに漏れ聞こえてくる。 新しいカフェの話、週末の予定、そして、今進めているプロジェクトの話。
アオイは意識を自分のモニターだけに集中させようとした。 聞こえない、聞こえない。
「…ていうか、この案、ちょっと分かりにくくない?」
不意に耳に届いたその言葉に、アオイの指が、ぴたりと止まった。 悪意のない、何気ない一言。特定の誰かを指したわけではない、ただの感想。
分っている。頭では、分っているのに。
――君の言いたいことは、よく分からないな。
脳裏に、冷たい声が蘇る。 大学時代の教授の、心底興味がなさそうな目。 クライアントの、嘲笑を隠そうともしない唇の歪み。 自分が信じたものを、大切に差し出したものを、心ない一言で踏みにじられた記憶。
キーボードの上に置かれた指が、氷のように冷えていく。 さっきまで慣れ親しんでいたはずのモニターの光が、今はまるで尋問室のライトのように、白々しくアオイの顔を照らしていた。
はっとして、アオイは現実に戻る。 同僚たちの談笑は、もう別の話題に移っていた。誰もアオイのことなど気にも留めていない。
そうだ、これが現実。 期待するから、傷つくんだ。分かってほしいと願うから、絶望するんだ。
もう、やめよう。
心の中で、重い鉄の扉をゆっくりと閉める。 分厚い閂を差し込み、古びた錠前を下ろすイメージ。
カチャン。
冷たい金属音が、がらんどうになった胸の中に響き渡った。 その音の感触だけが、妙にリアルだった。 もう誰も、ここには入れない。
アオイは小さく息を吐くと、凍っていた指を、再び動かし始めた。 まるで、何もなかったかのように。




