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偽りの愛でもいいから

作者: ぷよ猫

 物心ついたときから、ずっと姫様が嫌いだった。

 母が姫様の乳母をしていたため、私は屋敷にいつも一人だったからだ。

 もともと母は王妃様の侍女だったらしい。結婚を機に退職したものの、私が生まれたあとに王妃様もご出産されたため、再び出仕することになったのだそうだ。

 たった三か月、娘と一つ屋根の下で暮らした母は、新たに雇った乳母とお世話係にすべてを任せて出て行った。

 その乳母も私が乳離れするとあっさり屋敷を辞していき、残ったのは決まった時間に食事を与え掃除洗濯をするお世話係だけだったのである。


「おかあさまは、いつかえってくるの?」


 私の問いに皆が一様に困った表情を浮かべ、


「奥様はお城で王女様のお世話をなさっているのです」

「とても名誉なことなのですよ」

「いい子にして、奥様のお帰りを待ちましようね」


 などと言って言葉を濁した。

 私はいい子にしていたけれど、母が帰って来ることはなかった。

 誕生日ですら、


「王女様がお風邪を召されたらしい」

「王妃様が視察中のためマデリン王女が寂しがり、奥様を手放さないそうだ――」


 と、何かしらのトラブルがあり、そのたびに『次は必ず帰ります』とメッセージが届くのだが、約束が守られたことはない。


 伯爵の父は宰相室に勤務し、国政を支えている。宰相の右腕と目され室長にまで出世したらしく、ほとんど家には帰ってこない。たまに顔を見せたかと思えば、たまっていた執務をササッと片付け王宮へ戻っていく。


「旦那様の邪魔をしてはいけませんよ」

「伯爵様は立派なお仕事をなさっているため、お忙しいのです」


 父にかまってほしくて執務室前の廊下をうろちょろしていると、お世話係に叱られ自室に連れ戻されるのが常だった。

 忙しい? 

 理解できない。だって、父は王宮へ戻る前に必ず温室へ寄り、手ずから薔薇を切って籠に入れているのだもの。

 その薔薇が妻である母への贈り物だと知ったのはずいぶんあとのことだったけれど、自分の娘に会う時間が捻出できないなんてあるはずがないのだ。

「久しぶりだね、ニコラ。しばらく会わなかったけれど元気だったかい?」

 食事を共にせずとも、こんな一言があったっていいじゃない?

 結局、両親にとって生活の拠点は王宮で、この屋敷は用がなければ立ち寄る価値もない場所なのである。すなわち実の娘など、どうでもいいということ。


 十歳になり、一通りの礼儀作法を家庭教師から学び終わったころ、私はそれを痛感した。姫様の話し相手として、母に呼ばれたのだ。

 やっと会える――。

「ずっと一人にしてごめんなさいね」なんて、抱きしめてもらえるんじゃないかと期待していた。このときは、まだ。

 

「この方が()()()()()()()()()()マデリン殿下ですよ」


 喜び勇んで登城する私に、そう言って誇らしげに姫様を紹介した母の顔が今でも忘れられない。

 母は慈愛に満ちた母親の笑みを姫様に、自分の部下を窘めるような厳しい視線を私に向けた。「誠心誠意お仕えするのですよ」と、さも私が姫様に忠誠を誓うのが当然と言わんばかりの一言をつけ加えて。

 

「おまえがニコラ? よろしくね!」


「よ、よろしくお願いします……」


 姫様に屈託のない笑顔で手を差し出され、思わず握手する。

 これが私と同じく両親に顧みられない寂しい方であったなら、『嫌い』だなんて、いかにも子どもっぽい嫉妬じみた感情を燻らせることはなかっただろう。

 けれど姫様は、黄金を思わせる豊かなブロンドと澄んだ空のような青い瞳の美少女で、コロコロと天真爛漫な笑顔を周囲に振りまく愛らしい姫君だった。

 国王夫妻も末子の姫様を殊更に可愛がっておられ、その溺愛ぶりは有名である。


「ドロシアは、わたくしのお母様だもの」


 ドロシアは私の母の名前であるはずなのだが。

 姫様は、日ごろからこのセリフをよく口にしていたらしい。

 王宮へ通うようになって、私も何度か耳にした。そのたびに母は、はち切れんばかりの笑顔で目を細める。

 そうして、やっと、わかった。

 ああ、この人にとって自分の娘は私ではなくマデリン王女なのだ。そりゃ、帰ってこないはずよね。娘も夫も王宮(ここ)にいるんだもの。

 ふと、姫様の乳母になるために私を産んだんじゃないかという考えが頭をよぎり、妙に納得してしまった。

 じくじくとした痛みが胸いっぱいに広がっていく。

 これ以上、姫様の話し相手なんてしたくなかった。

 もう、傷つきたくないから。

 けれど、母は容赦なく私を叱り飛ばした。

 

「姫様の前で、そんな辛気臭い顔をしないでちょうだい!」


 母は姫様(自分の娘)を傷つけるものが許せないのだろう。

 あるときは、庭先で姫様が転び、頬を叩かれた。


「あなたが姫様をお守りしなくてどうするのっ」

 

 姫様が急に走り出したので止めようもなかったのだと釈明すれば「あなたが転べばよかったのに」とまで言われ、あまりの理不尽さに呆然となる。


「わたくしがいけないの。ニコラが花壇に蝶が飛んでいるって教えてくれたから、我慢できなくてつい走ってしまって……」


 姫様がしおしおと泣いて謝るものだから、余計に母は怒り心頭だ。

 立っているだけで庇護欲をそそる方なのである。勝てるわけがない。


 私はハニーブロンドの髪を茶色に染めている。それだって――。


「レイモンドお兄様にニコラと見間違えられてしまったわ。後ろ姿がそっくりだって」


 姫様はしょんぼりと肩を落とす。

 見間違えた!? 優秀だと評判の王太子殿下が……?

 背丈は私のほうが高いし、金髪だって姫様よりも薄い色味だ。少なくとも私は誰かに姫様と間違えられたことなど、一度もない。

 なのに、母は憤怒の形相で私に染粉を押しつけた。今すぐ髪を染めてこい、と。

 髪を痛めるのが嫌だったから、こっそり王宮魔術師に魔法で髪色を変えてもらったのは、せめてもの抵抗だ。


 こんなこともあった。

 めずらしく母が屋敷に戻ってきて、私のクローゼットからピンク色のドレスをすべて処分してしまったのだ。

 姫様が「ニコラのほうがピンク色のドレスが似合うからもう着たくないわ」とおっしゃったらしい。


「とにかく姫様が落ち込んでいらっしゃるのよ。このドレスはもう要らないわね?」


 母は私の返事を待たずに踵を返した。

 さすがにショックだった。お気に入りの薄ピンクのシフォンは、両親からプレゼントされた特別なものだったから。

 ねえ、そのドレス、なかなか帰れないお詫びにと仕立ててくれたのよ……覚えていないの? 

 以来、私は深緑の地味なドレスばかりを纏うようになった。

 一度だけ公爵令息のブライアン様が、「最近、緑色のドレスが多いね。あのピンクのドレス、似合っていたのにもう着ないの?」と不思議そうに首を傾げていたけれど……。

 

「ニコラはピンクより深緑のような落ち着いた色が好きなのよっ。いいじゃない、何色のドレスだって」

 

「僕は別に文句を言ったわけではないよ。その深緑のドレスも、ニコラ嬢のオリーヴ色の瞳を引き立てていて素敵だよ」


 姫様がすごい剣幕でブライアン様に噛みついて、この話はそれきりになった。

 深緑なんてちっとも好きじゃないのに……姫様の嘘つき。やっぱり大嫌い。

 ちなみにブライアン様は姫様の従兄であり、婚約者候補でもある。輝く黄金の髪と深い青の瞳をした優しい顔立ちの美少年で、彼がいるだけでパッとその場が華やぐ。まさに姫様とは美男美女のカップルだ。

 そのキラキラの貴公子に『素敵だ』なんて褒められて、深緑のドレスも案外悪くないかも……と思ったことは秘密にしておこう。

  

 十四歳になると、私は話し相手から姫様の侍女になった。

 決して望んでなったわけではない。母に逆らえなかっただけだ。

 絶対に無理だと説得を試みたのだが無駄だった。


「これは決定事項です。別に四六時中、姫様に侍るわけではないわ。今までどおり屋敷から王宮へ通って、姫様の話し相手と頼まれたことをするだけ。簡単でしょ」


 最初から選択権などないような口ぶりに落胆する。

 ずっと姫様に仕えてきた母が王妃様付きの女官になることが決まったので、この機会に若い侍女をつけようということらしい。

 この国では結婚前の行儀見習いとして貴族令嬢が王宮侍女となるのはめずらしいことではなく、私のほかにも侯爵家のアリシア嬢や伯爵家のフィオナ嬢など数名のご令嬢が姫様に仕えることになった。

 とはいえ、着替えや入浴など身の回りのお世話をするメイドは、すでにたくさんいる。

 私たちの仕事は、姫様の話し相手をしつつチャリティー用のハンカチに刺繍をしたり、食事や外出のたびに着替えるのでその衣装のアドバイスをしたり、王女主催のお茶会の準備をしたりすることだった。


「ヘンリエッタの淹れるお茶はすごく美味しいの」

「アリシアとフィオナは服のセンスが抜群ね」

「ケイトは刺繍の腕がいいわ。細やかで職人としてもやっていけそう」


 姫様は、自分の侍女やメイドをよく褒める。このことが皆から慕われる理由の一つであることは、間違いないだろう。

 私だけ褒められたことがなかったので、自分にはご満足いただける能力がないのだと思っていたけど。

 あるとき、ポツリとこぼした不満に本心が透けて見えた気がした。


「本当は侍女よりもドロシアと一緒にいたかったのよ。でも、そろそろ親離れしないとダメなんですって。同じ年頃の令嬢たちと交流を深めることも大切だって、お母様がおっしゃるの」

 

 きっと姫様は、母といられなくなったのは娘の私が侍女になったせいだと思っていらっしゃるのだろう。そして私を疎んじておられる。

 所詮、私と姫様は最初から相容れない関係なのだ――。



 それから二年が経ち、十六歳になった私は侍女の仕事を無難にこなしていた。付かず離れず目立たないように、細心の注意を払って。

 屋敷から王宮に通い、夕刻に帰る。その繰り返し。

 王妃様付きになった母から怒られることはなくなったし、もう姫様のために何かを取り上げられることもない。

 ただし、お茶会の招待状の代筆を任されたりしたときは、ここぞとばかりに姫様からお小言を頂戴することはある。

「この文面、ちょっと平凡ね。どうにかならないの?」と、こんなふうに。

 つくづく私は姫様に嫌われているのだと思う。

 けれど「招待客が多いから定型文でとのご指示でしたのに、急にどうなさったんです? マデリン殿下らしくありませんわ」とアリシア嬢やフィオナ嬢に諫められれば、姫様は口を噤むしかない。

 天真爛漫で、つい守ってあげたくなるような愛らしい王女様……姫様は自分がどう見られているかよくご存じで、そのイメージを壊すようなことはなさらないのだ。


 父は相変わらず私に無関心だ。

 ただ、いくつか縁談がきていたらしく婚約が決まった。お相手は騎士のグレン様。伯爵家の次男である。

 私は一人娘なので婿に入ってもらうつもりなのだろう。

 ずっと会うことがなかった私に、父は淡々と両家の婚約について告げるのみであった。

「元気だったか?」の一言くらいあっても、罰は当たらないと思うのだけど?

 でも、いい。

 今まで一人だったぶん、これからグレン様と愛し愛される関係を築いていけたら……。


「これからよろしく頼む」


 はにかみながら微笑むグレン様を一目見て、私はすっかり舞い上がっていた。

 

 グレン様とは、お互いが休みの日に我が家でお茶を飲んだり、レストランで食事をしたり、街の商店を巡って過ごす。仕事柄、王都を巡回することが多いらしく、高級店から下町の格安店までいろいろ案内してくれた。

 私は今まで誰かと一緒に出掛けたことがなかったから、それがとても楽しかったのだ。


「宰相室長のご息女と聞いて、もっと深窓の令嬢みたいなのを想像していたんだ。『こんなもの、とても食べられませんわ』って顔をしかめるような」


 庶民に混じり屋台で牛串にかぶりつく私に、グレン様は目を丸くする。

 自分としては、屋台グルメも町娘風のワンピースもけっこう好きなのだけど。


「あら、がっかりしました?」


「いいや。お高くとまった令嬢より、口にソースをつけている君のほうがずっといいよ」


 そう言ってグレン様は私の唇についたオニオンソースを指で拭ってくれた。

 大きな手。

 心臓が跳ねる。

 実際、私たちは上手くいっていたと思う。

 

「ねえ、わたくし考えたんだけれど、ニコラの婚約者のグレンを専属騎士に任命しようかと思うの」


 姫様のこの発言があるまでは。



***



 はぁ~。

 失敗した。まさか、姫様が私の婚約者に興味を持つなんて油断していた。


「ヤダ! ニコラもすっかり恋する乙女ねぇ」


 私のため息に気づいて、ニヤニヤしながらウィンクしてくるのは王宮魔術師のダレルさんだ。

 体は男、心は乙女、年齢不詳のダレルさんには、以前、母から渡された髪の染粉を持ってフラフラ歩いていたときに声をかけられた。かなり挙動不審だったらしい。

 ダレルさんは事情を聴くなり「あんたの母親は正気なの? そんな粗悪品で髪を染めたらボロボロになっちゃう! 魔法で染めたげるわ」と憤った。

 それから月に一度、魔法で髪を染めてもらっている。かれこれ五年ほどの付き合いになるだろうか。

 今日も私のハニーブロンドを「こんなに綺麗なのにもったいない」とぶうぶう文句を言いながら、魔法をかけてくれた。

 婚約者ができたときも一番に喜び、下町デートの服装など、相談にのってくれたのは彼、いや彼女だったのだ。


「そんな心ときめく悩みじゃないですよ」


「もしかして……()()、王女サマなの!?」


「しーっ! 声が大きいですって」


 ここは魔塔近くの裏庭なので、王族の生活エリアとは離れている。だけど、誰かに聞かれたら不敬罪に問われかねない。


「大丈夫よ。こんなとこ誰も来やしないから。それよりニコラの婚約者殿って王女サマ専属の護衛になったのよねぇ?」


「ええ……」


 あれから姫様は国王陛下におねだり……いやお願いして、グレン様を自身の専属騎士に迎えた。

 最初は「彼がわたくしの専属になれば、あなたたち二人は毎日のように会えるじゃないの」と、さもいいことをしたかのように振る舞っていた姫様だったが、グレン様を相当お気に召したらしく手放さないのである。そのせいで休日デートはおろか、まともに話すことすらできない。

 ため息交じりに愚痴をこぼすとダレルさんは呆れ顔になる。


「あのねぇ、婚約者殿はキリリとした長身の美形でしょ。そりゃ気に入るわよ。なんで引き合わせるようなことをしちゃったの?」


「もちろん阻止しようとしましたよ。でも、相手はあの姫様ですよ?『ニコラの婚約者だから安心して任せられるわ』って、母を味方に引き込まれたら太刀打ちできませんて。それにグレン様は、ブライアン様とはタイプがまったく違うし……」


 物語でいうところの白馬の王子様がブライアン様なら、グレン様は姫を守る騎士だ。外見もグレン様は黒髪だし目鼻立ちがキリッとしていて、金髪で優しい顔立ちのブライアン様とは正反対である。

 近々、正式にブライアン様が姫様の婚約者に決定するだろうと言われていたこともあって、まさか姫様があれほどグレン様にのめり込むとは思わなかったのだ。


「バカねぇ。王女サマは自分が一番じゃないと気がすまない性格じゃないの。アタシたちの仲間はみんな言ってるわ。『天真爛漫だなんて、ちゃんちゃらおかしい』ってね。ああいう女は、好きなものを全部手に入れたがるのよ」


「迂闊でした。きっと私が浮かれすぎていたんでしょうね……」


 ちょうどアリシア嬢とフィオナ嬢の結婚が決まり、皆で恋バナに花を咲かせていたのも悪かった。

 でも姫様だって「わたくしも、そろそろブライアンと正式に決まりそうなのよねぇ」なんて、照れ笑いをされていたじゃないの。

 それなのに――。

 グレン様を私室にまで連れ込んで楽しそうに過ごされているため、最近、メイドたちの間では姫様とその騎士の恋の噂が囁かれ始めている。

 私は二人の恋の障害物。実際に新米メイドから、そんな目で見られることもあった。幸い、古参メイドは私に同情的だ。


「ふぅん。その調子じゃ、『マデリン王女と専属騎士は密かに想い合ってる』なんて噂が広まるのも時間の問題かもね」


「そして私は邪魔者ですか。嫌ですよ、被害者はこちらなのに」


 しょげて俯く私を不憫に思ったのか、ダレルさんは元気づけるように私の頭をポンポンと撫でる。そして、染め直した茶髪を丁寧に結ってくれた。


「大丈夫よ、あんたたち上手くいってたんでしょ? 婚約者殿がしっかりしていれば何も心配いらないって」


「うん…………」


「もしどうしてもダメなら……あっ、そうだ! これをあげるわ」


 ダレルさんは思い出したように黒いローブのポケットから小さな赤い石のペンダントを取り出し、私の手にぎゅっと押しつけた。


「な、なんですか?」


「ジャジャーン! これは人を虜にするペンダントよ。ちょっとした魅了と洗脳と錯覚と……まあ、惚れ薬みたいなものかしら? 完成したばかりの試作品なのぉ」


「そんな怪しげなもの、人に押しつけないでくださいよ」


 ギョッとして手のひらのペンダントを凝視したとたん、ガーネットに似た深紅の石が妖しい光を放ったような気がした。

 こわごわとした手つきでダレルさんに返そうとするも、そのまま突き返されてしまう。


「いいじゃない、お守りだと思えば。いざとなったら、これで婚約者殿を取り戻せばいいのよ。少しは気が楽になるでしょ? ただし、使えるのは一度きり。石に魔力を込めて相手に『好き』と言ってね。処刑されたくなければ、間違っても王太子殿下を対象にしちゃダメよ」


「し、し、しませんよっ。そもそも相手に『好き』だなんて難易度高すぎませんか?」


「ハハハ、人を虜にするんだから、それくらいの覚悟がなくっちゃ」


 あたふたする私の様子がおかしかったのだろう。ダレルさんは野太い声で豪快に笑った。

 小心者の私は王太子妃の座を狙う度胸もなければ、誰かに告白する勇気もない。一生使う機会はないだろうが、可愛いデザインだし、せっかくもらったんだから……と首にかけてみる。

 考えてみれば、なるべく目立たちたくなくて、これまでアクセサリーは一切つけていなかった。「年頃の娘が」って、ダレルさんによく言われていたっけ。

 そうよ、これはお守り。

 心の余裕なのだ。


 ダレルさんと別れて職場へ戻る途中、前方から紺の騎士服を凛々しく着こなしたグレン様が、足早に近づいてくるのが見えた。

 私の姿を認めるなり、不機嫌そうな声が飛ぶ。

 

「ニコラ! どこへ行っていたんだ。探したんだぞ」


「休み時間ですし、ちょっと所用があって。お茶会は終わったのですか?」


 今、姫様はブライアン様とお茶会の最中である。婚約間近とあって、最近は頻繁にお二人で過ごされているのだ。

 もっともグレン様が専属騎士になってからは、実質三人のようだけど。


「姫様がお呼びなんだ。『たまには、ニコラ嬢も一緒にどうか』とブライアン様がおっしゃったから」


 姫様の後ろにはいつもグレン様がピタリと張り付いているので、ブライアン様から見ても私たちには一緒にいる時間が足りていないように感じるのかもしれない。気遣いのできる優しい人だから、四人でのお茶会を提案してくれたのだろう。

 それなのにグレン様は、眉間にしわを寄せムスッとしている。一刻も早く姫様のもとへ戻りたいのか、「行くぞ」と歩く速度を上げたので、私はつんのめりそうになりながら小走りについて行った。


「あのさ、君は侍女なんだから、もっと姫様を気にかけて差し上げてほしい」


 でた! いつものお説教。


「あら、私が仕事の手を抜いているとおっしゃるの?」


「……休憩中でも、何かあったらすぐに駆けつけられる場所にいるべきだろう」


「すみません。でも今日は本当に用事があったんです」


「日頃の姫様に対する態度のことを言っているんだ。君は招待状の不備を指摘されても、取り合わなかったそうじゃないか」


「は? 招待状に不備なんてありませんでしたけど?」


 私が代筆した招待状のお茶会は、先日つつがなく終了している。そう説明したのに、なぜかギロリと睨まれてしまった。

 さっきダレルさんには言わなかったけれど、このところ彼はこんな感じで、私に対する素っ気ない態度がメイドたちの噂に拍車をかけている。

 もっと姫様のことを考えろ――。

 事あるごとに繰り返されるその主張は、まるで母が再来したかのようで、じわじわと精神が削られていく。

 

「ニコラが冷たいから、姫様は泣いておられるのではないのか。昨日だって、眠れないとおっしゃって一晩中お慰めしていたんだぞ。君がもっと姫様の心に寄り添っていれば――」


「ちょ、ちょっと待ってください! 一晩中って、まさか姫様の寝室ではないでしょうね!?」


「やましいことは何もない。俺はあの方に騎士の忠誠を誓っている」


「そういう問題じゃないでしょう!」


 未婚女性が男性と寝室に二人きりだなんて、貞操を疑われても仕方がない。下手すれば、姫様は内定している婚約が破談、当然グレン様も処罰される。

 忠誠を誓っていたからって、身の潔白は証明できないのだ。


「君は嫉妬深いんだな。実に醜い。姫様とは大違いだ」


 グレン様は、すん、と冷めた瞳で私を見ている。

 軽蔑された――。

 一体いつの間に私たちの関係はおかしくなってしまったのか。

 今のグレン様は、姫様を妄信するあまり周りが見えなくなっている。これ以上、私が何を言っても聞いてもらえないのだろう。

 忠告する気力がなくなって黙り込むと、グレン様も無言になった。

 ギクシャクした空気のまま、ひたすら長い廊下を歩く……。


 私たちが姫様の部屋の前に着くと、ちょうど扉が開いてブライアン様が出てきたところだった。

 

「ブライアンは、もう帰るんですって。ニコラ、お見送りをお願いね」


 部屋の奥からピリピリした声で姫様に命じられる。

 すると、苦笑するブライアン様に「機嫌を損ねたので、退散するんだよ」と小声で教えられた。

 姫様は昔から、ブライアン様に対しては感情をストレートに表すところがある。従兄妹同士ということもあり、気を許していらっしゃるのだろう。ブライアン様もそんな姫様に寛容な態度で接している。


「すまないね。彼女があの状態だから、君は婚約者とまともに会うこともできないだろう? 何度注意しても聞く耳を持たなくてね」


 道すがら、ブライアン様に謝罪された。彼はちっとも悪くないのに。


「いいんです」


 当のグレン様が姫様を優先しているのだ。

 まさか『騎士の忠誠』まで誓っているとは思わなかった。

 それは、生涯ただ一人の主に自分の命を捧げて尽くすという至上の誓いだ。

 命よりも大切な人……。

 結局、グレン様も姫様を選ぶのね。

 キシッと心が撓む音がした。

 そのあと何を話し、どう歩いたのか。

 見送りをすませて戻ってくると、少し開いた扉の向こう側では、姫様とグレン様がキスをしていた。


 いざとなったら……。

 ダレルさんの言葉が脳裏にこだまする。


 ――これで婚約者殿を取り戻せばいいのよ。


 私は胸元のペンダントをぎゅっと握りしめた。

 

 

***



「ちょっと、どういうことよ! わたくしと婚約破棄だなんてあり得ないわ」


 姫様の怒鳴り声が響く。

 人払いされた部屋には、姫様とグレン様、ブライアン様、それに私だけだ。

 

「婚約破棄ではないよ。僕たちの婚約はまだ正式なものではなかったからね。ただ婚約者候補を辞退しただけだ。このことは王姉である母上も賛成している」


 ブライアン様は静かに姫様との縁談が白紙になったことを告げ、隣に寄り添う私に熱のこもった視線を向けた。

 そんな私たちの様子をグレン様は怪訝な顔で見ている。何か言いたげだが、会話の途中で姫様の許可なく発言する無作法なまねはしなかった。

 

「伯母様が? なぜ……」

 

「なぜ? この国の王女とその護衛騎士の恋の噂が広まっているのを知らないのか。王都の劇場では舞台まで上演されて、王女の寝室で逢瀬を重ねるシーンが話題になっているそうだよ」


「バカなっ! 姫様の寝室へ入ったのは、あのとき一度きりだ」


 姫様の後ろに控えていたグレン様が、思わずといったふうに声を荒げ、慌てて口を噤んだ。そして『おまえがバラしたのか』と言わんばかりの怒りのこもった目で私を見るがお門違いである。

 早朝、寝室から出てくるところをお部屋係に見られていただけ。口の軽い新参の若いメイドだったため、またたく間に噂が広まったのである。

 ブライアン様は、グレン様から私をかばうように一歩前に出た。

 

「このまま王女を娶れば我が家の恥になる。そう判断して、表向きは『マデリン殿下の恋心を慮り身を引いた』ということになった。そもそも僕が選ばれたのは、候補者の中で身分が一番高かったからだ。白紙になったところで政治に影響はない」


「そんなっ。お父様は? お父様はなんて?」


「致し方ない、と。愛娘の恋を叶えるため、グレン殿との結婚をお認めになるそうだよ」


 姫様は息を呑む。それからボロボロと涙を流し始めた。


「ち、違うのブライアン! わたくしが一番大切なのはあなたよ。グレンはニコラの婚約者だから特別に目をかけていただけ。それに彼は次男だから家督を継げないじゃない。そんなところへ王女のわたくしが嫁ぐというの?」


「王女と護衛騎士の結婚は過去に例がある。確か、伯爵位を叙爵されたはずだ」 


「わたくしが伯爵夫人!? 冗談じゃない。もう一度、お父様にお願いするわ。ブライアン、わたくしを見捨てないで」

 

 姫様はブライアン様に縋りつこうとしたが躱されてしまい、よろめいた体をグレン様が咄嗟に支えた。

 傷ついたように肩を震わせる姿が痛々しくて、女の私でも庇護欲をそそられる。だが、ブライアン様に動じる様子はなかった。


「もう決まったことだ。僕は君とは結婚しない」


 断言され、姫様は驚愕の表情を浮かべている。口をパクパクと動かし、すぐに言葉が出てこないようだ。

 無理もない。甘やかされて育った姫様には、誰かに拒絶された経験がないのだ。

 その間に私はグレン様の前へ進み出た。


「そういうわけですので、私とグレン様の婚約も解消されました。『騎士様の一途な想いに打たれて身を引いた』ことになりまして、今日はそのことを直接お伝えするために、この場を設けていただいたんです」


「やましいことは何もないと言ったはずだ! それに俺との婚約が解消されたら、ニコラと結婚する男なんていないだろう? 伯爵家はどうなるんだ?」 


 確かに婚約解消になった令嬢は外聞が悪い。年頃の令息も婚約済みで条件の悪い縁談しかなかったり、修道院に行くこともある。でも――。


「姫様とキスしていたことは、やましくないんですか?」


「うっ……それは…………」


 グレン様は目を見開いた。私に知られているとは思わなかったのだろう。小さな声で、自分からキスしたわけじゃないとか、仕方がなかったんだとかモゴモゴと言い訳を始める。

 どうやら姫様に庇護欲を刺激されて騎士の忠誠を誓ったものの、結婚は私とするつもりだったようだ。

 忠誠を誓ったからには、主の言うことに逆らうまいと従っているうちに段々エスカレートしていった……ということらしい。


「私のことはご心配なく。お相手は、もう決まりましたから」


「なんだって?」


 驚くグレン様にブライアン様は言う。


「ニコラは僕と婚約した。伯爵家は彼女の従弟が継ぐ。本来なら、王女と一夜を明かした時点で処罰されてもおかしくなかったところを、陛下のご配慮で誰の醜聞にもならず丸く収まったんだ。今さら騒ぎ立てないほうがいい」


「グレン様、今までありがとうございました。どうか姫様とお幸せに」


 最後のけじめとして頭を下げる。もう、何も言うべきことはない。

 重い沈黙が落ちた。

 青い顔をしたグレン様は、少し逡巡してから覚悟を決めたかのように「君も」と一言だけ返した。そうして、再び騎士らしく姫様の後ろに控える。


「では、そろそろ失礼しようか」


「はい」


 ブライアン様の腕に手を添え、エスコートされる。退出しようと二、三歩行ったところで、背中から「卑怯者!」と叫ぶ姫様の声がした。


「わたくしにグレンを奪われたから、ブライアンを誘惑したのね! だいたい昔から気に入らなかったのよ。わたくしのお母様は厳しいのに、ドロシアみたいな優しい人が母親だなんて。お父様やお兄様たちもニコラのことを美人だって褒めるし、フィオナとアリシアもニコラは綺麗で賢いって……何よ、皆してニコラ、ニコラって。そのうえ公爵夫人ですって!? おまえなんかっ――」


「姫様っ……」


「何よ、離しなさいよっ」


 振り向くと、憎々しげに拳を振り上げてこちらに向かってこようとする姫様を、グレン様が腕を掴んで止めていた。

 ああ、私は姫様にそんなふうに思われていたんだ。

 私は母の優しさなんて知らない。

 王妃様の厳しさだって、きっと姫様のため。気づこうともしないなんて。

 やっぱり、大嫌い。


「今ここで騒ぎを起こしてニコラを傷つければ、いかに国王と言えど君をかばいきれなくなるよ。修道院へ行くのは嫌だろう?」


 ブライアン様が警告し、今度こそ私たちは部屋の外へ出た。



 あの日――。

 姫様とグレン様がキスしているのを見たとき、本当はこのペンダントでグレン様を取り戻すつもりだった。

 姫様に奪われるくらいなら、たとえ偽りの愛でもかまわない、と。

 けれど、グレン様と抱き合っている姫様の言葉を聞いたとたん、サーッと血の気が引いていった。


「おまえはわたくしの騎士だから、これからもずっと一緒よ。結婚したら公爵家へ連れて行くわ」


 ということは、私が妻になったら、帰らぬグレン様を持つだけの生活になるのだ。また屋敷に一人ぼっちで。

 しかも姫様は、結婚後もグレン様と関係を続けるつもりらしい。

 次の瞬間、今まで感じたことのない激しい怒りがふつふつと湧き上がってきた。

 ブライアン様を裏切る!? 

 そんなの許せない。

 私のことだけならまだしも、ブライアン様まで傷つけるなんて!

 激情に駆られて、ようやく気づいた。私の本当の気持ちは……好きな人は――。

 もう一つの選択肢が浮かんだのは、このときだった。どうせ偽りの愛ならば、今度は私が姫様の大切なものを奪ってやろう、と。

 身をひるがえし、全速力で走った。馬車寄せで、今まさに乗車しようとしているブライアン様。間に合ったのは奇跡だ。

 この勢いがなければ、きっと一生言えなかった。

 

「好きです……」


 握りしめたペンダントにありったけの魔力を込め、なけなしの勇気を振り絞った。

 ブライアン様がポカンとした顔で「嘘だろ……」と呟いたので、最初は魔法が失敗したのだと思ったけれど、徐々に顔が赤く染まり私の手を取って「嬉しい」と言ってくれたから、ちゃんと『虜』にできたのだと思う。 


「僕も君が好きだ。身の回りを整理するから、少しだけ待っていて」 


 ブライアン様は満面の笑みで帰っていった。


 それからは、あっという間だった。

 どんな手を使ったのかはわからないけど、メイドたちの噂が王都中に広まり、気がつくとあちこちの劇場で王女と騎士の恋愛物語が上演されていたのは、たぶんブライアン様の仕業だ。お陰でマデリン王女の恋を応援する声が高まり、すんなりと婚約者候補を辞退できたのである。

 私とブライアン様の婚約も、誰にも反対されずにすぐ決まった。

 父は私に無関心だが、娘の婚約者を王女に奪われ行き遅れになるという醜聞は避けたかったようだ。

 母も「姫様のために身を引くのはいい心がけです」と新たな縁談に同意した。

 公爵家からは「宰相室長のご息女であれば」ということで認められた。存外、父の仕事ぶりは高く評価されていたらしい。

 現王の姉であるブライアン様のお母様は「息子が選んだ相手なら、わたくしは何も言うことはありません。もともとマデリン王女との縁談には反対でしたの。陛下はあの子を甘やかしすぎました。その尻拭いをこちらに押しつけられても困りますものね」と実の姪に対して辛辣な意見であった。

 正直、格下の伯爵家では釣り合わないと嫌がられるのではないかと不安だったので拍子抜けした。


「後悔していない?」


 婚約証書にサインする間際、ブライアン様に尋ねられた。

 私は答える代わりに、大きな文字で署名する。


「ブライアン様は、後悔していませんか?」


 同じ質問を返すと、ブライアン様は心外とばかりに目を見張った。


「まさか。するわけがない。僕は人生を諦めていたんだよ。生まれたときからすべてが決められていて、自分では何も選べない。でもあの日、君が来てくれたから道が開けた。ずっと好きだった君との未来がね」

 

 けれど、それは偽りの愛。

 だから、これはせめてもの決意表明。


「大好きです。ブライアン様のことは、私がきっと幸せにしますからね」


 ブライアン様の顔がほころぶ。そして、私の唇にそっとキスを落とした。



***



 その後。


『世紀の大恋愛』と国民に祝福されて、姫様とグレン様は盛大な結婚式を挙げた。

 グレン様は伯爵に叙され、姫様は爵位に不満があるようだが、夫婦仲は悪くないらしい。

 そもそも姫様は、私の母のように自分を甘やかしてくれる人がお好きなのだ。その点、騎士の忠誠を誓い、尽くしてくれるグレン様とは相性がいいのだと思う。

 なんだかんだ言っても、お互い好きだからキスしていたんだろうしね。

 

 私とブライアン様は仲のよい夫婦だ。

 数年ぶりのハニーブロンドの髪、新調した薄ピンク色のシフォンのドレス。

 ブライアン様は優しいし、一日に何度も「愛してる」と言ってくれる。すごく幸せだ。

 今、私の手には赤い石のペンダントがある。もう魔法が使えないその石を大切に取っておいたのは、あのときの決意を忘れずに自らを律するためだ。

 私は臨月になる大きなお腹を撫でる。

 この子が生まれたら、ブライアン様は幸せだろうか? 

 ううん、まだまだ足りない。

 もっと頑張らなくては。



 そして。



「バカねぇ。そんなことを気にしてたの? あのペンダントの効き目はせいぜい三日間よ。だって工作員用に開発した、一夜限りのハニートラップを仕掛けるためのアイテムだもの。え? 聞いてない? アタシがあんたに一生誰かを洗脳するような危険なモノを渡すわけないでしょ。おー、よしよし、可愛いでちゅねぇ。だーかーらー、勇気を出せば人生は変えられるってことよぉ。ヤダ、ちょっと泣かないでよ。アタシが悪かったってば。赤ちゃんまでギャン泣きしてるじゃない――」


 あのペンダントの真実がダレルさんの口から語られるのは、もう少し先――。

 私が無事に男児を出産したあとの話である。 


 


最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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