赤縁眼鏡の女子
退部届はネットで見つけた見本通りに作った。退部届を握りしめ、部室に行った俺は新部長に告げた。
「サークルを辞めようと思う」
「え、辞めちゃうんですか? 何でです? 会計係の続投をお願いしようと思ってたんすよ。先輩がいてくれた方が部費が回収しやすいと思うんすよ。年上の言うことは皆聞きますし……」
嫌味で言っているのか、素で言っているのか。
この男は、ひと月前までは1つ下の学年だった。それが今月より俺と同じ三年生だ。なぜなら俺が留年したからだ。
「とりあえず考え直して下さいよ。先輩、いや、今井さんなら適任ですし、みんなそんなこと気にしないから平気っすよ」
「いや、みんなが気にしなくても俺が気にする。じゃあ、そういうことだから」
「え、先輩、ちょっと待っ……」
俺は最後まで相手の言葉を聞かず、退部届を突き付けると逃げるように部室を後にした。退部届は部室の床に落ちた気がしたがもう知らん。
居場所もないのでそのまま学食へとやって来てはみたものの、退部届は無事に受理されたのだろうかとふと心配になった。もう一度部室に行くのは絶対に無理だ。今頃ひそひそ何か言っているに違いない。
学食内にいる人はまばらで、俺は適当に端の方の席に座った。提供カウンターの奥ではこれからのランチタイムに備え、食堂のおばちゃん達が忙しなく動いている。
退部の件は後で聞いてみるか。俺以外の四年生はスーツを着て引き続き就活に勤しんでいる。俺は再び三年生だ。就活を開始するまでしばらく時間があると思うと、ほっとするような気もするが来年の春には新社会人となる同年齢の人達から一年遅れをとるわけだ。
就活の時、留年の理由を何て説明したら良いんだ。まさか、うっかり三年生までに取らなきゃいけない必修の単位を取るのを忘れていましたと正直に言うのか? 間違いなく面接で突っ込まれるヤツ。あと、ゼミもどうしたら良いかわからん。また同じゼミを受けるとか教授にイジられるのが確定してるじゃないか。
何かいろいろとやってらんねぇなぁ……いや、自分が全て悪いんだけど。
タバコでも吸いに外に出ようかとズボンのポッケに手を入れ、ポッケの中に何も入っていないのを認識してさらにイラついた。タバコは吸えない。
ふと、俺の斜め向かいの席にトレーに食事を乗せた女子が座った。何でこんな近い席に座るんだよ……と、思ったらちょうど昼時になったので学食のテーブルは満席になりつつあった。
ああ、俺も何か食おうかなぁ……。
女子はやけに恭しくトレーをテーブルに乗せ、鞄から手帳や筆記具を取り出した。そして、手を合わせ「頂きます」と、深々と目の前のカツ煮に頭を下げた。この飽食のご時世にたかだか学食で提供された食事にきちんと手を合わせて食べるとは。
何と行儀の良い学生だろうかと思った。
女子は赤縁の眼鏡を掛けている。艶々とした髪を後ろでひとつに結び、決して派手でもなく流行りを追っかけているわけでもない大人しめな格好をしている。それがまた赤縁女子の清楚な雰囲気によく似合っていて、話したこともないが好感が持てた。
赤縁女子はカツ煮をひと切れ箸でつまみ、口に持って来ると眼鏡がくもった。その姿が少し、ほんの少しだけ面白いと思ってしまった俺は、シラバスを眺めるふりをしてしばらく赤縁女子を観察することに決めた。
ふぅふぅと口から空気を送りカツ煮を冷まし、口に入れるやいなや、眼鏡の奥の瞳が見開き固まった。
……何が起きた? 猫舌?
目を見開いたままゆっくりとカツをかみ、飲み込むと、そのまま手元にあった手帳に書き込みを始めた。
食レポか何か? 学食のメニューに特筆する点なんてあるか?
手帳に書かれた文字は小さくて俺の位置からは読めない。
赤縁女子はもう一度カツ煮に箸を伸ばすと、再び口に運んだ。
すると、咀嚼をしている最中にじわりと目に涙がにじみ、ポロポロと涙が出てきて慌てて鞄から出したハンカチで涙をふいた。
何で突然泣いた? こんな人混みで泣くとか大丈夫か? メンヘラかもしれん。大学はいろんなヤツがいるからな。赤縁眼鏡のメンヘラ女子大生。関わらない方が良い。
俺がメンヘラ赤縁に見切りをつけて、席を立とうとしたところ、メンヘラ赤縁の隣り(俺の向かいの席でもある)に人が座った。
「小早川女史、今日はカツ煮ですかな」
スーツを着たまるまると太った男だった。留めているボタンはぱつんぱつんで今にも弾けそう。スーツが辛そうだ。
この人、見かけたことあるな。たぶん同じ学部の四年生だ。
「はい、今日はカツ煮にしてみました。揚げたてのカツと、出汁のきいたおつゆの奇跡のハーモニーに思わず感動しました」
「さすがベストチョイスですな。うちの学食で、カツ煮は母さんの味と名高く、学食人気ランキングでは三本の指に入ってますからな。そして、私めは今日はカレーですぞ」
「カレーも良いですよねぇ」
「そう。今年度よりカレーのスパイスを変えたとの情報がありますからね。小早川女史も食堂のご婦人達と仲良くなればいろいろ教えてくれるようになりますぞ」
「はい! 頑張ります」
メンヘラと思っていた赤縁は素直にパツパツスーツの言うことを聞いていた。思っていたよりもメンヘラでは無さそうだった。会話の感じはとっつきやすそうだった。同じサークルのメンバーか何かだろうか? それにしても男の方、アクの強過ぎる喋り方だな。素か? それともわざと? あと着ているスーツのサイズは絶対に間違えていると思う。
その時、ふいに香水の香りがふわりと鼻をつき、俺の左隣りに人が座った。テーブルの上に開げていたシラバスを少し自分の方に寄せると、トレーを持つ真っ赤なネイルが目に入った。顔を上げると、そこには大きく胸元の開いたスーツを着ている女がいた。
「あら? 未島君も一緒? アメイジングなランチになりそうね」
「美波里女史は今日は月見うどんですか。麺類の気分でしたか」
「卵をひとつおまけしてくれたわ。学食のマスターとミューズ達に今日も感謝を」
女はカウンターの奥で忙しなく動いている食堂のおばちゃん達に向かって十字を切り、手を合わせた。
この露出女は知っている。学内でちょっとした有名人だ。通称、美魔女。やたらと露出度の高い服を着て、真っ赤な口紅をつけ見た目の年齢は同年代か年上かよくわからない女。スーツを着ているということはまさか就活中? 大きく胸元が開き、太ももが露わになっているこの格好で就活? どういう神経してんだ。というかそんなスーツどこで調達したんだ。
しかし、俺のこの状況は非常に気まずい。
左に美魔女、向かいの席にパツパツスーツ。右斜め前に赤縁。
つまり、俺は囲まれた。
※本作はフィクションです。登場する大学・人物・団体はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。特定の大学等を揶揄する意図もありません。