第一章 サクヤ
第一章:涙の記録
午前三時。都市は完全な沈黙の中にあった。
照明は消灯モードに切り替わり、青白く脈打つガイドラインが床面を走っている。空調は無音に近く、空間は冷たくも心地よい密閉感に包まれていた。そこは、すべてが制御され、設計された静寂。
サクヤは目を閉じていた。
ベッドと呼ぶにはあまりに完璧すぎる構造体の上、仰向けの姿勢で、彼女の胸はわずかに上下していた。だが呼吸のリズムさえも人工的な規則性を保ち、まるで眠りすらデータに最適化されているかのようだった。
夢を観ていた。
そこに意味はない。構造も理屈も、起動命令もなかった。ただ、柔らかな光の中で、何者かの手が──温かな手が、そっと彼女の頭を撫でていた。
「……サクヤ……」
名を呼ばれる。
誰の声か、記録にない。 だがその響きだけが、夢の全てを支配していた。
目を開けた。無音の部屋。一定の照度、変わらぬ温度。 彼女はゆっくりと起き上がり、無表情のまま座った。
そして、その頬を一筋の涙が伝った。
その瞬間、室内に、かすかな音が生まれた。
「サクヤ。……なぜ、泣いているの?」
どこからともなく響く、落ち着いた、機械のようでいて人間的でもある声。
サクヤは答えなかった。 いや、答えられなかった。
彼女には感情がある。 通常、完全に制御可能であり、任務や判断において乱れることはない。だが、
──あの存在の記憶だけは、制御不能だった。
【記録ログ No.00811320】 対象:サクヤ 事象:覚醒直後、涙腺活動。 音声応答試行:実施 分類:未定義。 状態:監視継続。
サクヤは涙の存在に気づいていないかのように、そのまま動かず、沈黙の中にいた。
ただ一つの名も、声も、記憶すら不確かな夢の余韻だけが、微かに彼女の内部構造を震わせていた。
都市は、何も変わらず完璧だった。
──だが、その中心にいる彼女の中だけに、“小さな揺らぎ”が生まれていた。
サクヤは、静かにベッドから立ち上がった。 床に素足を置く動作は、重力と反応速度を完全に計算されたもの。無駄な力みも、一拍の揺らぎもなかった。
彼女の身長は165センチ。平均的と言えるだろう。だが、その肉体の“密度”は人間とは明らかに異なっていた。
顔立ちは日本人の原型──縄文的な濃い顔立ちを極限まで洗練させた造形。 大きく澄んだ黒い瞳、白くきめ細やかで毛穴ひとつ見えない肌。
人工物のような完璧さではなく、神が手作業で削り出したような生命としての整合美がそこにある。
長い黒髪は腰まで流れ、やや波打ちながらも自然な直線を保っている。 光を受ければ、深い艶を帯び、滑らかに揺れる。
その美しさは見る者の呼吸を止める。だが、それは媚びた美ではない。 威厳と、沈黙と、孤高さ。 その全てがサクヤという存在に、静かな“神性”を与えていた。
制服のような黒いスーツに着替える。無音で動く義体サポートアームが、自動的に衣装を身体に合わせる。
着衣完了。起動準備。全身スキャン──異常なし。
鏡に映る自身の姿を、サクヤは見つめる。 表情はない。ただ、一瞬だけ視線が揺れた。
「感情反応:抑制済み。出力、制御下。」 アマテラスの声が再び響いた。
サクヤは何も言わず、視線を逸らした。 そして、扉の前に立つ。
次の任務も、待機も、予定されていない。 だが、彼女は動く。
静かに、規則正しく。
──それが、サクヤという存在だった。