隠し味
「どうだ?うまいか?」
「ええ、とってもおいしい。ありがとうシュウさん。」
「喜んでくれて嬉しいよ。」
食卓を挟んで向かい合う一組の男女。女の手からするりとフォークを奪い、くるくるとスパゲッティを巻き付けて男が女の口元へあーんと運ぶと、なんのためらいもなくぱくりと食らいつき、もきゅもきゅと咀嚼する。
シュウはほっぺがもちもちでうふふと笑う彼女が大好きである。そしてシュウは料理が上手い。調理実習で好き勝手してA判定がもらえるくらいには上手い。どんなものでもレシピサイトを横目に一発で仕上げてしまえるのだから、シュウは料理もリンの次くらいには好きだった。つまりシュウは、大好きと好きを掛け合わせた、愛しのハニーにお手製の料理を振舞うことが、世界で一番幸せな行為だった。
リンもまた、シュウのことが大好きである。甘い声でたくさん好きだと言ってくれて、優しくハグしてキスしてくれて、おいしい料理を愛を込めて作ってくれる。きっと世界が終わるのなら、まあ別に終わらなくても、この人のそばで過ごしたいと願い続けるほど、彼女はダーリンを愛していた。
「シュウさん、これはなあに?またいつもの隠し味?」
フォークの先でちょんと食材を示す。不思議な食感がするものの、正体がわからないのだ。
「ああ。今日のは何かわかるか?」
「……アオサとか?」
「残念、不正解だ。」
シュウの料理には大抵隠し味が入っている。けれどもリンは一度も何が入っているのか見破れたことがない。訊いても答えを教えてくれることはないのでいつももやもやするのだが、目の前の王子様に目をやるとニコッと笑ってくれるので、もうどうでも良くなってくる。これもいつものことだ。
つまるところ、二人はバカップルである。
さて、リンはいつもシュウにばかり料理を作ってもらい申し訳なさを感じていた。実はシュウが料理を振舞ってくれるようになった当初から罪悪感はあったのだが、なにせ本人がにこにこと心底楽しそうに作り、心底楽しそうに食べているこちらを見てくるので。一度、私も手伝うよと台所に立とうとしたが、お前は食べる専門でいいんだぞとダイニングの椅子までエスコートされてしまい、それ以来、まあシュウさんが楽しいならいいか、と深く考えずにいた。がしかし先日、体重計の数値を見てから罪悪感がむくむくとぶり返してきたのだ。
「どうしましょ……。」
「とりあえずカマトトぶっときゃいんじゃねーの。得意だろ。」
廊下を歩きながらぽつりとつぶやいた声に、だいぶトゲトゲしいこだまが返ってきた。
「カマトト?」
「そーゆうとこだよ。まあオマエなら言われる前からやってんだろうけどさ。」
「カマトトを?」
「カマトトぶるのを。別に彼氏が幸せそうならなんもしなくてもいいだろ。彼氏がお前に餌をやって、お前はそれを幸せそうに食う。お互いウィンウィンなんだろ。あ、高田クンおはよっ!」
「ウィンウィン。」
投げやりな口調が一瞬で矯正され、酒を飲んだ後のようなダミ声も三オクターブは高くなったが、いつものことなのでリンは無視した。ついでに高田も無視した。
「でもなっちゃん、私だってシュウさんにおいしいもの食べてもらいたいのよ。だってシュウさんいつも私の分しか作らないのよ?味見でお腹いっぱいだからとか言って。」
「知らねえ知らねえ。アタシはシュウサンが飯を食おうが食うまいが関係ねーの。そんなに手料理食べさせたきゃ作りゃいいだけの話だろ。」
「私、台所入っちゃダメって言われてるの。」
「ママにか?」
「シュウさんに。」
「ハッ、かわいいお姫様に包丁は持たせられませんってか。んなもん破っちまえ。あ、竹中クンおはよ。髪切った?」
またも猫を被ったなっちゃんと竹中を無視して、リンはうむむと考えた。うちの台所は使えない。そうだ。
「なっちゃん家の台所貸して?」
「うん、私は駅前の美容室で切ってるんだけどー。あ、じゃあまたお昼話そ!じゃあね!……ぜってーヤダ。」
「そんな。」
竹中からこちらへ意識を戻すなり、低い声で拒否された。じゃあどうしろというのだ。友達なんてなっちゃん以外いないのだ。しゅんと下を向きとぼとぼ歩いていると、なっちゃんがふと足を止めた。
「……いいぜ。」
「え?」
「台所、貸してやるよ。ただし条件付きな。」
なっちゃんがニヤリと笑った。
「経血チョコ、作ろうぜ。」
作り方は簡単。市販のチョコレートを溶かす。生クリームを混ぜたら、ハートのシリコン型にヘラで分厚く塗る。固まったら、事前に採取した経血といちごジャムを注ぎ、その上にまたチョコレートを流し込む。
「こんな感じじゃねーの?」
三回目にして満足いく形になったそれに、なっちゃんはふう、と額の汗を手の甲でぬぐった。経血チョコのレシピなんて検索しても出てこないので、ジャム入りチョコレートの作り方を応用したのだ。そこまで難しいものではなかったが、リンの不器用さからいくと血が無くなる前に完成できたのは上出来だろう。来月も台所を貸すつもりでいたなっちゃんは静かにガッツポーズをした。
「どうにか血が余ってるうちに完成できてよかったな。あとはラッピングしてシュウサンに食わせるだけだぜ。どんな反応すっか楽しみでしょうがない。ただの血でもいかれてんのに経血だって知ったらさあ!」
この女、なぜ経血チョコの作成を自宅のキッチンの使用条件にしたかというと、ただ楽しみたかっただけである。友達とのお菓子作りを、ではなく、経血チョコを食べたシュウの反応を、だ。数日前、彼女は知り合いの女が経血チョコを好きな人に食べさせたと知った。女曰く、愛情表現だそうだ。なっちゃんはその主張が全く理解できなかったが、なにしろ楽しそうなことが大好きなので。あの彼女を姫のように甘やかすシュウならば、かわいいハニーが自分に経血を摂取させたとわかるとどう反応するのか、考えるだけでうっとりとした。
ちなみになっちゃんも経血チョコを作ったのだが、それらは全てトイレに流した。普通に考えてばっちいので。
「でも、シュウさんに食べさせて大丈夫かしら?」
リンは完成したハートのチョコレートを袋に入れてラッピングしつつ、ぼんやりとダーリンを思い浮かべる。何をあげても喜んでくれる彼のことだ。きっと今回も喜ぶだろう。しかし、もしチョコレートに自身の経血が入っていると種明かししたら?シュウは多少彼女に甘いだけで、普通の倫理観くらい持ち合わせているだろう。警察に突き出されるくらいならいいが、最悪別れを告げられるかもしれない。脳足りんな彼女はようやくそのことに気が付いた。
「なっちゃんどうしましょ、やっぱり私渡せないわ。もしかしたらシュウさんに、すて、捨てられちゃうかも。」
涙をいっぱいに溜めた瞳がなっちゃんに向けられる。まさに捨てられた子犬のようで庇護欲をそそられるが、なっちゃんは事も無げにその言葉を切り捨てた。
「渡せ。大丈夫だって、シュウサンはやさしーんだろ?かわいいかわいいプリンセスの愛情表現だぜ?むしろ喜ぶだろ。もしなんかあったとしても、どうせちょっと説教されるくらいだ。」
そんな確証はない。しかし、せっかく台所を貸して気色の悪いチョコを作るのまで手伝ったのだ。今さら計画が中止になるのだけは何としてでも阻止したいなっちゃんは、どうにかリンを説き伏せようとした。
「そう、よね。シュウさんがもし怒っても、謝ればいいんだものね。」
リンは馬鹿であった。
さて、そんなこんなでリンは愛しのダーリンの待つアパートへ帰宅した。カツンカツンと外の階段を上ると、ふわりといいにおいが漂ってくる。きっとシュウが夕飯を作っているのだ。
「ただいま、シュウさん。」
ガチャリとドアを開けると、ぱたぱたとシュウが玄関に向かってきた。
「おかえり。今日の夕ご飯は肉じゃがだぞ。」
そう甘い声で告げ、シュウがへらりと笑う。ああ、今日のシュウさんもやっぱりかっこいいなあ。なんてことを思いながら、リンは切り出した。
「あのね、シュウさん。渡したいものがあるの。」
そう言ってリビングに向かうとシュウも付いてくる。今日は何かの記念日だったか?いいえ違うわ。そんな会話をしながらソファーに荷物と上着を置く。そしてチョコを取り出そうとして、手順を思い出す。
「いいか、まずは普通に渡すんだ。んで食わす。お願い今食べてとでも言っとけ。そして全部食い終わってから、だ。いいか、全部食わせるんだぞ。途中で吐き出しても全部食わせるまでなんも言わず待つんだ。全部食ったら……そこで種明かしだ。これは経血チョコです、私の血液その他もろもろが入っています、ってな。」
そうだ、確かなっちゃんは吐くかもしれないと言っていた。そう思い出し、リビングからキッチンへ移動しようとした。
「わ、待て待て。キッチンを使うのか?」
うんと答えると、シュウはちょっと待ってて!となにやら慌てた様子でキッチンに戻り、戸棚をガサゴソと漁り、バチンとコンロの火を消した。包丁でも隠されたのだろうか、別に触りやしないのに。
「よし、いいぞ。」
促されてキッチンに入る。二人で立つとやはり狭いが、シュウさんと近づけてうれしいなあ、なんてリンは思った。別に狭くなくても四六時中くっついているのだが。
「シュウさんあのね、これ。いつもお料理してくれるお礼にと思って。なっちゃんと一緒に作ったのよ。」
はい、とハートを手渡すと、シュウは目をキラキラと輝かせた。
「お礼なんて、俺が趣味でやってるんだからいらないのに。でも、ありがとう。食べるのが勿体無いよ。」
「だめ、ちゃんと今食べて。」
とりあえず、チョコレート自体は喜んでくれた。リンは心の中でほっと息をつくと同時に、これから起こることについて少し恐怖した。シュウは舌が肥えている。血が入っているとはわからなくとも、何か異物が入っていることは見破るだろう。袋から出されたチョコレートを見て、リンは拳をそっと握った。
「いただきます。」
バリ。一口食べてシュウが固まる。もしやバレた?そう思いリンは内心焦るが、シュウはそのままチョコレートをバリボリと食べすすめ、ついに完食してしまった。
ここからが問題だ。大丈夫、精一杯謝ればシュウさんは許してくれる。そう、口を開いた。
「シュ……。」
「リン。」
意を決して放った言葉が、シュウに遮られ不発に終わる。顔を合わせると、いつになく真面目な顔をした彼と目が合った。ああ、謝らなければ。ほんの出来心だったと、愛情表現の一つだったのだと、言わなければ。しかし、急速に乾いていく喉から音を出すより、シュウが話し出す方が早かった。
「もしかして、気づいてたのか?」
「……へ?」
空気が凍る。気づいてた?何に?予想外の言葉に戸惑うリンの瞳を見て、シュウは小さく息を吐いた。
「いや、最近いちごのチョコレートが食べたい気分だったんだ。すごくおいしかったよ。」
「あ、そう、そうだったのね。よかった。実はなっちゃんと作ったのよ。」
どうやらばれたわけではなかったようだ。リンは安心すると同時に、赤色だからと適当に選んだカモフラージュのいちごジャムを愛する彼が喜んでくれたことで胸がいっぱいになる。ネタバラシをしなければいけないことなど、もう頭にはなかった。
「シュウさん、お夕飯はもうできる?私、安心してお腹が空いてきちゃった。」
「そんなに心配だったのか?大丈夫、リンの作るものは、俺から見たら素晴らしいものばかりだけどな。まだ少し掛かるから、先に風呂でも入ってきてくれ。」
眉を下げてシュウが笑う。やっぱり、シュウさんは私の王子様なんだ。甘い顔で甘い言葉を吐き出す彼を見て、リンはもう何度目かもわからないような確信を抱いた。
風呂場の扉が閉まる音が聞こえる。それから程なくしてシャーという水の音。
二つの音を確認したシュウは再びバチンとコンロをつけた。それから戸棚を開いてビンを取り出す。醤油さし程の大きさをしたソレには、中身が見えないよう、黒いビニールテープが巻きついている。
口の中に残る甘ったるさから、先ほど感じた確かな気配を模索する。あの、鉄のような臭みを。まさかリンが血の入ったチョコレートを差し出してくるなんて。もしかして経血だろうか。付き合う中でわかるようになった彼女の周期から考えるとそれもあり得る。まさかそんなことをするような子だとは思っていなかった分、ショックも大きい。
ビンの蓋を開け、肉じゃがに中身を振りかける。
でもよかった。これなら、きっと彼女も理解してくれるだろう。たとえ理解してくれなくとも、今回の件をちらつかせればいい。確かなっちゃんと作ったと言っていた。彼女から裏を取れば逃げることもできなくなる。
ビンを覗き込むと中身が少なくなっていた。そろそろ爪を切らなければ。髪の毛は最近補充したばかりだったような。蓋を閉じて、同じ黒いビニールテープの巻きつくビンの並ぶ戸棚に戻す。並ぶソレらを見て、王子様はうっそりと微笑んだ。
今日も隠し味には、愛情がたっぷり込められている。