依頼と傘
帰り道は一人のつもりだった。
それなのに、後ろを静かに歩いて付いてくる人がいる。
もちろんそれは、ローズが選択したからだ。
店の奥に見えた鉄格子や、店員が当たり前のようにつけた枷に査定と言う言葉。そして、ほんの一瞬だけ見せた怯えた瞳。
それらを見なかったふりが出来ず、こうして二人で歩いている。
「そう言えば、あなたの名前は?」
もうこれきり会うことはないと思っていたので、あえて朝には訊かなかった。
斜め後ろを歩く人に振り返って訊いてみる。彼は静かに答えた。
「名前は、ないですよ」
「ナイ?」
小さく首を振った。
首につけたチェーンが軽い音を立てた。
奴隷である限り、魔道具である首の枷を外すことは出来ない。ただ目立つ枷ではなく、少し華奢なチェーンに変えることはできると、先ほどの店で教えてもらったのだ。もちろん、早速変えてもらった。
金の線が入った青い石が通してあるチェーンは、普通のアクセサリーにしか見えないし、服の中に入れてしまえば、全くわからない。
「主が付けるものだから、名前はないんだ」
「主が付ける…」
ローズは考え込む。
奴隷は身近にいなかったので、知らなかった。確かに、書類にも特徴と番号だけで、名前を書く欄はなかった気がする。
「何か呼ばれたい名前はないかな?」
「…」
どう見てもローズよりも年上の人だ。今まで呼ばれなれた名前や憧れた名前の一つくらいないだろうか。そう思って訊いてみるも、ただ戸惑った顔になるだけだった。
親に付けられた名前は?
そう訊こうかと考えて、やめた。
呼ばれたい名前が思い付かないのだから、それが答えだ。
「うーん。どうしようか…」
曇天の空を見上げる。
その時だった。
「見つけた! 嬢ちゃん!」
後ろから声がしたので振り替えると、一人の恰幅のいい男性が、立っていた。
「あれ、パルシェさん。こんにちは」
「良かった。嬢ちゃん、今、時間あるか?」
本音を言えば、早く家に帰りたかった。朝ハーブティー一杯だったからお腹がすいているし、色々あったから彼も休ませてあげたい。
しかし、いつもはのんびりしているパルシェがとても焦った様子だったので、とりあえず、話だけでも訊いてみることにした。
「大丈夫ですよ。何かご依頼ですか?」
「あぁ、ちょっとうまく説明できないんだが…。こちらの兄ちゃんは知り合いかい?」
パルシェはローズの隣に立つ青年を見上げた。
「はい。えっと、何と言うか…」
「あぁ、やっと助手が見つかったんだな。良かったなぁ。みんな心配してたんだ」
奴隷を買ったとは言えないし、その上紹介したくても名前がないので焦っていると、パルシェは一人で納得していた。
「少し細いが力もありそうだ。これで安心だな。嬢ちゃんのこと頼むな!」
パルシェが彼の背中をバンバン叩く。
助けを求めるようにこちらを見ている気がしたが、このまま押し通そうと心に決めたローズは満面の笑みを浮かべた。
「じょしゅ…。はい、助手です!」
この関係を素敵に現す単語に出会い、ほっとする。それだけで、急いで帰らなくて良かったと思えた。
「それで、どうしたんですか?」
「それがだなぁ。昨日のことなんだが、妻が用事でいなかったからさ、俺一人で夕飯食いに食堂に行ったんだが、そこで傘をな…」
ローズは肩に掛けていた鞄から、メモ帳を取り出した。挟んである鉛筆をしっかり握り、メモを取る準備をした。
「食堂というのは、カルロスさんのところですか?」
「おぅ」
「奇遇ですね。私も昨晩行ったんです」
「そうなのか? あそこが一番旨いもんな」
この辺で食堂と言えばその店のことだ。
途中、休憩時間はあるものの、朝から晩まで開いているので行きやすいのだ。メニューは家庭料理中心で、デザートの種類も豊富なので大人気店だ。
「でも、お会いしませんでしたね。何時ごろに行ったんですか?」
「六時くらいかな」
「わたしは七時くらいだったので、入れ違いだっんですかね」
「そうかもな。俺は食うのが早いからな。いつもマリサに、もっと味わえと叱られるんだ」
マリサとは、パルシェの妻の名前だ。夫とは正反対のテキパキした性格で、仲が良い夫婦として知られている。
「それでだな、傘なんだ」
「失くしたんですか?」
「いいや、傘が増えてるんだ」
「増えてる…」
「そう。家の傘立てにこの女物の傘が一本増えててな」
パルシェは困ったように持っていた傘を持ち上げた。
「気づいたのはマリサなんだ。なんだか、雨が降りそうだろ? 出掛けに傘を持っていこうとしたらしいんだ。それで、この傘はどうしたのって訊かれてさ」
パルシェの家は二人家族だ。子供はいるが、もう別に暮らしているらしい。
傘立てにあるのは夫妻の傘二本だけ。それが、今日はなぜか三本に増えていたと言う。
「俺も全くわからないんだ。昨日出掛けたのは、食堂だけ。もちろん一人だったし、相席とかもしてない」
どんどん早口になるパルシェを見て、ローズは焦っている理由を察した。
「女性ものの傘…」
パルシェが持っていたのは、細身の赤みがかった紫色の傘だって。持ち手は木でできている。
「いや、本当にやましいことはないんだ。ずっと一人だった。家に他の誰かを入れてもいない」
愛する妻に浮気を疑われている、とはメモには書かず心の中に留めて置く。
「一応食堂に行ったんだが、誰も傘を取りには来てないらしい。あの店はいつも混んでるだろ? 店員も誰が持っていたかなんて覚えちゃいないし、困ってなぁ」
カルロス食堂は人気店で、その上、六時頃となると家族連れで混みあっている。店員も客の持ち物に気を配ってはいないだろう。
「大方、酔っぱらって誰かの傘を持って帰っただけだと思うんだが、昨日はそんなに呑んでないはずなんだよなぁ…」
「この傘、預かってもいいですか?」
「あぁ、もちろん。その方が助かる。本気で浮気を疑ってはいないだろうだけど、家に置いとくとマリサの機嫌が悪いんだ…」
だから、何がなんでも傘の持ち主を探してほしい。
パルシェはローズに問題の傘を渡すとそう付け加えた。
ポツリと雨が振ってきていた。




