05:南東へ向かう
こういう世界に飛ばされる創作のお話にはよくある設定だけれど、生前の記憶がだんだんと薄くなっていってしまうという定番の現象がある。
異世界に飛ばされたら昔のことを主人公に忘れてもらって、その世界に馴染んでもらわないと困るという作者の意図がありきの設定なのだろうけど、例外的になのか、はたまたあの設定が空想のものだったからなのかしらないが、私の身には今のところあの現象は起きていない。
なので、生前の知識をフル活用している。
もちろん、あの現象が今後起こらないとも限らないので、用心して思い出せる限りの知識は紙にまとめておいた。
紙についてはシヴォリに調達してもらった。
こういう世界なので紙が貴重品なのかと思いきや、普通に生前と同じ程度の流通量で、何故か魔物にまで普段遣いされていたので、型にはまらない世界だなと思いつつありがたく使わせてもらった。
そこで、だ。
今はシヴォリの寝床となっている一角に、布とバカでかい植物の葉などをつかって、簡易的なテントを作って住まわせてもらっているのだけれど、シヴォリの許可ももらったのでこの地点にちょっとした小屋を建てようと思うのだ。
建築士ほどの耐震云々とかの知識はないけれども、簡単な小屋程度なら建築系の会社にいたときに職人さんたちに教えてもらっている。
実践するのは初めてだから、正直うまくいくかはわからないけれど、知識だけならきちんと持っている。
必要な工具や森の木を使わせてもらう権利は、シヴォリがツテを当たってくれると言うのだが、それにはこの森の中である程度の権力を握っている一族にお目通りしないといけないらしい。
シヴォリは何だかんだ私のことを気に入ってくれたようで、いろいろと世話を焼いてくれるけれど、その一族というのがどういう者たちなのか、前情報がほぼ無い状態なので、不安しかない。
私は今、その一族が暮らすという、森の最果てと呼ばれる一番南東の地域に、シヴォリの背に乗って移動しているところだ。
シヴォリの縄張りであり、今私が暮らしている地点からは、ヴーヴに行くよりも距離があるらしい。
森の中心部には、この森の守護神のようなものを祀っている祠があり、そこには近づいてはいけないという、森に住む者には暗黙の了解があるのだとか。
なので、中心部は通れないため、南に走って少々迂回しながら走らないといけないようだ。
さすがに距離があるので、シヴォリも途中で休憩を挟むとは言っていた。
移動し始めてから二箇所ほど川を越えてきた。そして目の前に三箇所目が見えてきたところで、シヴォリが休憩を取る旨を伝えてきたのだった。
「この辺りなら、誰の縄張りでもないから少しは休めるだろう。魔物も何故かこの辺りはうろつかないんだ」
なるほど。私の身の安全を考えての休憩場所選びだったということか。
気を遣わせてしまって少し申し訳ないな。
眼前に流れていく川は、雄大という表現まではいかないけれど、そこそこの水量のある清流だった。
透明度は高く、魚が泳いでいるのもチラホラ見える。
この森に住み始めて思ってはいたけれど、ここは生前の日本ですらほんのひと握り程度しか残っていないような、自然そのものを感じる原風景が残されているようだ。
きっとここに住む魔物たちは、人間に危害を加える者はいるかもしれないが、自然に仇なすような者はいないのだろう。その本質はもっと人間側にも評価されていいものだと、私は個人的には思うけれど。
人間側の、文明の発展に際した自然の切り崩しが理解出来ないわけでもないけれど、やはり生前の出身が田舎であった私としては、都会よりはこういう場所の方が好感が持てるものだ。
「川が気になるのか」
人間の姿になって休憩していたシヴォリが、ふと私に話しかけてきた。
「綺麗だなぁと思ってさ」
「それはそうだ。この川は、森の中心の湿地帯から湧き出ているものだからな。水女神の恩恵だよ」
中心部──たしか、行ってはいけない禁足地っていう話だったな。
「水女神っていうのは、魔王が生まれるより遥か昔からこの土地を守っていた神だよ。これから用があるあいつらとは違って、本物のカミサマってやつだ」
これから用がある──この森の権力者の一族というやつか。詳しくは聞いていないけれど、神様に近い存在ということなのだろうか。
怖い人たちじゃないといいけれど。
「我は少し足を冷やして休ませてくる。くれぐれも、我の目の届かない場所まで行ってくれるなよ」
いい顔の男に言われると、意味深に捉えてしまいそうで危ない。
はーいと気のないような返事だけしておいた。