第93話 責任重大
互いに惰眠を貪り、朝飯兼昼飯を済ませてだらだらと過ごす。
「湊さん、やってみたい事があるんです。いいですか?」
今までと変わらない休日になるかと思ったが、愛梨が小首を傾げながら尋ねてきた。
「無理難題じゃないよな?」
「ええ、無茶なことじゃありませんよ。普通の事です」
愛梨が悪戯っぽい笑顔で「普通の事」と言う場合は、全く普通ではないのが分かっている。
だが既に恋人なのだし、仮に過剰に接触されても困りはしない。
「分かった、ならいいぞ」
「ありがとうございます。じゃあ失礼しますね」
そう言って愛梨は湊の胡坐に座り込み、体の力を抜いて寄りかかってきた。
こちらを見上げる表情はご満悦の笑みだ。
「湊さん背もたれです。一度やってみたかったんですよね、重くないですか?」
「全然、むしろ軽すぎるな。こんなに細いし」
「ひゃ!?」
愛梨が遠慮なく体を預けてくるので、彼女の細い腰に腕を回すと小さい悲鳴が聞こえた。
そのまま抱き寄せるようにして体をくっつけると、戸惑った声が掛かる。
「あの、これは?」
「嫌か?」
「嫌と言うか、湊さんがこういう事をするのは初めてじゃないですか?」
「そりゃあ前まではただの同居人だったからな、けどもう遠慮はしないぞ。嫌なら言ってくれ」
愛梨の言う通り、こうして湊の方から理由無く抱き締める事など一度も無かった。
彼女からすれば急すぎるかもしれないが、湊にとっての理想の体現とも言える美少女が傍にいるのだ。これまでは何かあった時だけ湊から接触すべきだと必死に我慢していたが、もう恋人ということで抑えなければならない理由など無い。
柔らかく温かい存在を確かめながら言うと、彼女がこちらを見上げながら微笑んだ。
「嫌ではありませんよ。湊さんに包まれてるようで嬉しいです」
「じゃあ堪能させてもらうからな」
「はい、どうぞ。私も堪能しますので」
愛梨が再び湊に寄りかかる。
くっつきながらゲームや読書など、別の事をしつつも触れ合い続ける時間はとても穏やかなものだった。
「なあ愛梨、俺もやってみたい事があるんだが」
夜になり、愛梨が風呂を上がった際に尋ねてみた。
絶対に断られないと思っての発言であり、予想していた通り彼女がふわりと笑みを浮かべて頷く。
「ええ、いいですよ。何をするんですか?」
「愛梨の髪を手入れしてみたいんだ、いいか?」
以前から一度だけでも愛梨の髪を手入れしてみたいとは思っていたのだ。
だが、今まではただの同居人という立ち位置だったので、こういうお願いは出来なかった。
折角なので頼んでみたものの、もしも嫌がるのであれば絶対にしないつもりだ。彼女の顔色を窺うと意外そうに目を見開かれただけで、その顔には嫌悪感など浮かんでいない。
「構いませんが、どういう風の吹き回しですか? 今日は妙に積極的ですね」
「まあ、なんだ……。恋人になったんだから、自分に正直になっていいかと思ってな」
面と向かって「もっと髪に触れたい」と言うのは恥ずかしいので、目を逸らしながら言葉を零すと、くすくすと軽やかに笑われた。
「いいですよ。貴方の好きなこの銀髪の手入れ、お願いしますね」
「ありがとな。じゃあ愛梨、さっそく教えてくれ」
単に湊に合わせてくれたのか、それとも本当に手入れをされる事を望んでいるのかは分からないが、我が儘を聞いてくれた事を嬉しく思う。
バイトで遅くなる時以外は愛梨が髪を手入れしている際に湊も傍に居るので、方法はなんとなくだが分かっている。だが出会った初日に注意されて以降、じろじろ見るのは悪いと思って目を逸らしていた。なので、詳しい事になると何も分からない。
流石に慣れている人に聞くしかないので、彼女の後ろに回って教えを乞うと弾んだ声が聞こえてくる。
「はい、じゃあまず――」
嬉しそうな声色の愛梨に説明されながら、手入れを開始した。
「……なんというか、本当に大変なんだな」
あれこれと教えられながら手を動かしているが、その大変さが改めて良く分かった。
湊であれば使う必要のないオイルを使用したり、ドライヤーでの乾かし方一つとってもかなり神経を使う。
ましてや彼女はロングストレートだ。湊よりも圧倒的に髪の量が多いので、乾くのに掛かる時間も多い。
ぽつりと言葉を零すと、苦笑する気配を感じた。
「でしょう? 結構神経を使いますし、時間も掛かります。嫌だったらしなくていいんですよ?」
「嫌なもんか。むしろ楽しいくらいだし、愛梨の綺麗な銀髪を俺が手入れ出来るのは嬉し過ぎるよ」
大変なのは言った通りなのだが、嫌な感情など全く湧いてこない。
きめ細やかで艶のある銀髪を自らの手で手入れ出来る事に優越感すら感じる。
「……そうですか」
正直な気持ちを伝えると、歓喜と羞恥の混じった声が聞こえてきた。
湊の手入れを喜んでくれるのは嬉しいのだが、当然ながら愛梨に比べて慣れていないので手際が悪い。
彼女からすればもどかしく感じてしまうだろう。それを申し訳なく思う。
「ごめんな、もっと上手く手入れ出来たら良かったんだけど」
「気にしないでください、むしろ手際が良かったら不安になります。私以外の女性の髪を手入れした事があるって証明されるんですから」
「そんな事ある訳無いだろ。俺がこうするのは愛梨だけだよ」
拗ねるような声で愛梨以外の女性の髪について言及されたが、そんな経験など無い。
そもそも女性の髪というのは大切な人以外に触らせないだろうし、そんな人など今まで居なかった。
そして、湊が手入れをしたいと思うのは彼女だけだ。そうキッパリと言うと、恥ずかしがるように愛梨の体が揺れる。
「……でしたら、これからお風呂上がりの手入れは湊さんにお願いしましょうかね。それと、私以外の女性の髪を手入れするのは禁止です。いいですね?」
「さっきも言ったが、愛梨以外の人の髪を手入れする訳無いだろ。触る機会すら無いって。でもいいのか? 慣れるまで時間掛かると思うぞ?」
この一度だけでも十分満足しているし、やはり本人がやった方が良いだろうと思っていたのだが、愛梨の口からはこれからの手入れの許可が告げられた。
もちろん出来ることなら進んでやりたいくらいなのだが、彼女に苦労を掛けてしまうだろう。
心配になって尋ねると、軽やかな笑い声が聞こえた。
「ふふ、構いませんよ。むしろお願いしてるのは私なんですから、遠慮しないでください。私の髪を貴方の好みにしてくださいね?」
「……責任重大だな、頑張るよ」
からかうように告げられたが、その内容はなかなかに重く、心が甘く疼きはしない。これから先、愛梨の髪の良し悪しは湊の手に委ねられたのだから。
この素晴らしい銀髪が周囲に誇れるようにしなければと意気込むと、湊の反応が予想と違ったのか彼女がこちらに振り向く。その顔は眉を寄せて気遣わし気だ。
「そんなに気負わなくて良いですよ。今の時点で結構上手ですし、多分すぐに慣れると思います」
「そうなのか? だったらいいんだが」
言われた通りにやっているが、湊には上手いか下手かなど分からない。
けれど、普段から手入れをしている愛梨がそう言うのであれば間違いでは無いだろう。
ほんの少しだけ自信を持ちつつ彼女の髪の手入れをし続けた。
「やっぱり良いですね、これ。幸せです」
髪の手入れを終えると、愛梨はそのまま湊の腕の中に入ってきた。
細い腰に腕を回して抱き寄せると満足そうな声が聞こえたので、これでいいらしい。
「俺も幸せだよ。……にしても、愛梨は本当に良い匂いだな」
風呂上がりの体を抱きしめながら自らが手入れした髪に顔を埋めると、シャボンの香りと愛梨本来の甘い匂いが合わさって、いつまでも嗅いでいたいと思えるくらい良い匂いがする。
また湯上りで彼女の体温が高く、湯たんぽのようで抱き締めがいがある。
しみじみと呟くと、愛梨が恥ずかしそうに体を動かした。
「前々から思ってましたけど、湊さんって私の匂い好きですよね」
「ああ、大好きだな。ドキドキもするけど、落ち着きもする。ずっとこうしていたいくらいだ」
「……ここまでするほどですか? 湊さんの方が良い匂いだと思いますけど」
ストレートな言葉を受け、愛梨が気を紛らわせるように体勢を変えて湊の胸に顔を埋めてくる。
その表情はリンゴのように真っ赤であり、予想していた通り照れているらしい。
とはいえ、彼女がすんすんと鼻を鳴らして湊の匂いを嗅ぐので、頬が羞恥で少しずつ熱を持っていく。
「愛梨は良い匂いだとは思うが、俺はそうでも無いだろ。というか、そんな事初めて聞いたぞ」
「前に一度言ってるんですけどね、別に忘れていても構いませんが。……本当に、良い匂いです」
どうやら愛梨は以前湊の匂いについて言及していたようだが、全く覚えが無い。当時の湊が冗談だと受け取って流したのだろう。
とはいえ彼女が蕩けるような笑みで匂いを嗅ぐので、本当に気に入っているようだ。
だが湊は風呂に入ってないので、あまり良い匂いとは言えないのではないかという疑問が浮かぶ。
「風呂上がりじゃないから汗臭くないか? 大丈夫か?」
「これはこれで良いものですよ。むしろ――。いえ、何でもないです」
「むしろ?」
「何でもありません。ほら、湊さんも入ってきてください」
愛梨が今まで浮かべていた笑みを引っ込め、つんとした態度で湊から離れた。
つい聞き返してしまったが、言葉を濁した部分が思っている通りであればあまり知られたくないはずだ。というより逆の立場なら湊もそうすると思う。
「はいはい、分かったよ」
好きな人の匂いであれば、若干汗ばんでいても好ましいと思うのは二人共なのだろう。
互いに思うことは同じだと分かって、嬉しくなりつつ風呂場に向かった。
「さあ湊さん、今度は私の番ですよ」
風呂から上がると、ドライヤーを片手にニコニコと機嫌良さそうにしている愛梨が待っていた。
やりたい事は分かるが、彼女と違って湊の髪に魅力など無いだろうと訝しむ。
「俺の髪を手入れする必要は無いだろ。短いし、ただの黒髪だぞ?」
「短くても良いですし、私は湊さんの黒髪が好きですよ。やらせてくれませんか?」
「……分かった、いいぞ」
やりたいという意思を否定するつもりは無いし、髪を触られるのが嫌という訳でも無い。
むしろ、愛梨に髪を触られると心地良さすら感じてしまう。
そこまで言うのならと許可をすると、彼女は嬉しそうに微笑んで湊の後ろに回り込んだ。
「それじゃあいきますね」
「頼む」
上機嫌な愛梨が湊の髪の手入れを始めた。といっても彼女の髪と違って短く、特に拘りも無い。
ドライヤーで髪を乾かすだけであり、その時間も愛梨のものに掛かる時間より圧倒的に短くなる。
「やっぱり乾くの早いですね」
すぐに乾かし終わるが、まだ触れていたいのか愛梨が湊の髪を梳きながら羨ましそうな声を発した。
「なら切るか? 前にも言ってただろ?」
個人的にはロングストレートが良いと以前話してはいるものの、愛梨が髪に関して煩わしく思っているのならバッサリ切って欲しいと思う。
単に湊の趣向に合わせてくれているだけなので、無理をしないで欲しいという気持ちを込めながら尋ねると苦笑の気配がした。
「いいえ。羨ましい事は確かですが、私の髪は湊さんの一番の好みの長さにしたいのでこのままにしますよ」
「……我が儘言って悪いな」
自分勝手な欲望に付き合わせてしまう事を申し訳なく思っていると、彼女が湊の頭をぐりぐりと指圧してくる。
「貴方の我が儘ではなく、私の意志ですよ。気に病む必要は無いんです。それに、苦労するのは私ではなく湊さんですよ?」
「……何で?」
「はぁ……」
前に話した時は、銀髪のロングストレートだから視線を集めてしまうという事だったはずだ。
それによって二人共苦労するのは理解出来るが、湊だけだと言うのは良く分からない。
愛梨の発した言葉の意味が分からず困惑した声を漏らすと、呆れたような溜息が聞こえてきた。
「さっきお願いしましたよね? これから私の髪の手入れは貴方がするんですよ? ……ほら、苦労するのは貴方じゃないですか」
「ああ、そういう事か」
確かにこれからは湊が愛梨の髪を手入れするのであれば、彼女は苦労しないだろう。
愛梨の言葉の一部に納得の意を示すものの、前提が間違っているので否定の為に口を開く。
「念の為にもう一度言うが、俺は愛梨の髪の手入れを苦労だなんて思ってないぞ。むしろ楽しいくらいだ」
「……そこまで言うならお願いします」
「ああ、任された。……それで、いつまで俺の髪を触るんだ?」
愛梨の方に振り返りつつ、乾かし終えてからずっと湊の髪を触っていることを言及した。
手入れなどとっくの昔に終わっているので、どうして止めないのかとほんのり睨むと楽し気な笑みが返ってくる。
「駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、楽しくないだろ」
「楽しいですよ。私とは違う、少し硬くて短い湊さんの髪を触るのは癖になりそうです」
「それならいいんだが、あんまり触ると俺もやり返すからな」
愛梨が楽しんでくれるのが一番だが、湊が彼女の髪を触ってもいいはずだ。
嫌がられないという確信があるので、何の気負いも無くさらさらの銀髪を撫でまわす。
湊が強引な行動をしたのが意外なのか、愛梨が手を止めて困惑した表情を浮かべた。
「え、あ、別に良いですけど、湊さんが強気です!」
「遠慮しないって言っただろ? ほら俺だけ楽しんでいいのか?」
「むぅ、なら私だって好きなだけ触りますよ」
ムキになった愛梨が湊の髪を触るのを再開する。
そうして、二人で向き合いながらお互いの頭を撫でるという、よく分からない事を結構な時間やっていた。




