第9話 二人の洗濯物
愛梨と同居を始めて最初の土曜日。さっさと学校から帰ろうと準備をしていたら一真に止められた。
「湊、お前今日バイト休みだろ? 遊びに行こうぜ」
「……すまん、今日は用事があるんだ。悪いな」
実際のところ用事は無いのだが、今日は帰って家事をしたいと思っている。
朝飯こそ作っているものの、夜飯、風呂と愛梨に任せっきりなのだ。今日くらいは早く帰って手伝いをしたい。
「用事ってまたゲームか? そんなにハマってるなら今度終わったら貸してくれよ」
一真が「仕方ないな」というような呆れ交じりの笑顔になる。
どうやら一真は湊が断ったのがゲームをする為だと判断したようだ。
昔からよくゲームをするといって断っているので互いに気にしてないが、今回はこのままの方が都合がいい。
「ああ、今度貸すよ。悪いな、また誘ってくれ」
「気にすんな、また誘うよ。じゃあなー」
申し訳なさそうに湊が謝罪をすると、一真はへらへらと笑って肩を叩き、他のクラスメイトの所に向かった。
どうやら湊が駄目だったのでクラスメイトと遊びに行くようだ。交友関係が広い奴は凄いと感心しながら湊は教室を出た。
湊は元から毎日掃除をするタイプではない、週末に一気にやってしまっている。
今回もそうしようとしたのだが、愛梨に訝し気な目をされた。
「……何しようとしてるんですか?」
「部屋の掃除をしようと思ってな」
理由を説明すると、気まずそうに苦笑された。
「やらなくて大丈夫ですよ」
「え、もしかして部屋の掃除は終わってる?」
「終わってるというか、普段から少しずつやっているので九条先輩にやってもらうほどの事はありませんね」
確かに湊はここ数日、妙に部屋に埃が少ないなと思っていた。
どうやら愛梨が学校から帰って来てから掃除していたらしい。
「すまん、そんなことまで任せてしまってたんだな」
「別に謝られることではありませんよ。特にやることが無いので時間潰しにちょうどいいんです」
本意では無かったと謝ると、ふるふると首を振って否定された。
とはいえ流石に部屋の掃除までやらせてしまっているのはどう考えても駄目だろう。
何か出来る事は無いかと思考を巡らせていると洗濯機の音が鳴る。久しぶりにこの電子音を聞いたと湊は違和感を感じた。
(あれ、この数日俺の洗濯物ってどうしてたんだっけ?)
不意に疑問が浮かぶ。
そう言えば愛梨が来てから湊は洗濯物を干していない気がする。
いつの間にか干してある洗濯物が畳まれていて、気づいたら取り込まれていたのでそもそもベランダに行くことが無かった。
嫌な予感がしつつも彼女に聞いておかなければならない。
恐る恐る愛梨にうかがう。
「……もしかして、洗濯もやってくれてたか?」
「そうですね、部屋の掃除ついでにやっていましたよ」
「あぁ……」
そう言って愛梨にこやかな笑顔を向けられて湊は愕然とした。
唐突に両膝を床につけ、更に手も同じようにハの字型にしてつける。最後に頭をつけるのを忘れてはならない、そして一言。
「誠に申し訳ありません」
湊は心を込めて土下座した。
「えっと、急にどうしたんですか? 止めてください」
「こうしなければいけないと思ったんだ。謝らせてくれ」
愛梨が焦った声で顔を上げろと言ってくるが、絶対に止めない。
夜飯、風呂、部屋の掃除に続いて洗濯もやってもらっている上に、掃除と洗濯は気が付かなかったなんて笑い話にもならない。
こんな土下座でいいというなら湊はいくらでもできる。
「謝られることではありませんから」
「いいや、これ普通は俺が怒られる件だ、本当に申し訳ない」
「分かりましたから、とりあえず頭を上げて下さい」
頭を下げたままもう一度謝罪すると、はぁと溜息をついて愛梨に許された。
とりあえず頭を上げると彼女はやれやれといった呆れた顔をしている。
これ幸いと湊は話を持ち出す。
「せめて洗濯は俺にやらせてくれないか」
「九条先輩、バイトで帰って来るの遅いじゃないですか」
「ならせめて今日だけでも! 頼む、やらせてくれ、お願いします!」
流石にこれ以上は良心が持たない。恥も外聞も捨てて湊は必死に頼み込む。
愛梨に変な人を見るような、若干引いた目をされたが今の湊には痛くも痒くも無い。
「……全く、物好きですね」
「物好きでも何でも構わん、絶対に今日は譲らんぞ」
何を言われようと譲るつもりは全く無い、という意思を込めて愛梨を見る。
しばらく見つめていると、愛梨は「仕方ないですね」という風に首を振ってようやく許可してくれた。
「はいはい、分かりました。それじゃあお願いします」
「ああ、任せてくれ」
洗濯物を干しているとネットに包まれた布の塊を見つけた、湊はこんなもの持っていないので愛梨のものだろう。
なんにしても干さなければいけないのでネットから出すと、その塊は下着だった。
(なるほど、こういう風にして洗うのか)
たかが布切れ。特に何の感想も抱かずに干そうとすると、部屋の中から切羽詰まった表情をした愛梨が出てきた。
湊は別に変な事はしていないし、ただ普通に干そうとしたただけだ。
やり方が何か間違っていたのだろうかと思ったが、そもそも正式な干し方など知らないので好都合だ、この際に聞いてしまおう。
「なあ二ノ宮、下着の干し方って――」
「九条先輩、ストップです! その中には私の」
湊の話を聞かずに言葉をまくしたてた愛梨は、湊が持っている下着を見てフリーズした。
「えーっと、二ノ宮?」
「……」
恐る恐る声を掛けるが全く反応が無い、目の前で湊が手を振っても同じだった。
放っておいても問題無いだろうと判断し、続きをしようとしたところで思いきり腕をつかまれた。
一緒に生活していても愛梨と触れ合う事など殆ど無い。
ひんやりとした愛梨の手の感触に、ほんの少しドキドキしながら彼女の顔を見た湊は絶句した。
(これは怖すぎる)
顔を見るといつもの三割増しくらいの絶対零度の目をしている。この目線で人を殺せるんじゃないだろうか。
春の昼時でかなり暖かいはずなのだが、妙に肌寒く感じる。
そのまま愛梨は温度を感じさせない声で言い放った。
「代わります」
「いや、俺がやるって二ノ宮も納得しただろ?」
「代わります」
「だから――」
「代わります」
凍えるような目に完全な無表情は恐怖を感じる。それに壊れた機械のように同じことしか言わないので、ここまでくるとちょっとしたホラーだ。
仕方がないので、愛梨を刺激しないよう出来るだけ優しい声で湊は妥協案を出す。
「分かった、下着は二ノ宮が干してくれないか? それ以外は俺がやるから」
「……お願いですから、私にさせてくれませんか?」
下着を持っている湊の手をぎゅっと握った愛梨は、ジッと湊を見つめる。その顔は今にも泣き出しそうだ。
湊がどうすればいいかわからず固まっていると、どんどん目が潤み、涙が滲んでくる。
流石に泣くのは聞いてない。余程見られたく無いのだろう。これ以上干そうとするのはどう考えても悪手だと判断した。
「……洗濯物、頼む」
「任せて下さい」
泣かれたらどうしようもないので仕方なく譲った。任された愛梨は心底安心したというような表情をしている。
これは愛梨から許可された事なので湊の所為じゃないと自分に言い聞かせる。
洗濯物すら干せない自分に呆れて、大きく溜息を付きながら湊は部屋に戻った。
「お話があります」
洗濯物を干し終えた愛梨にそう言われた。湊としても物申したいので望むところだ。
クッションに向き合って座り、互いに相手を見据える、この座り方は同居初日を思い出す。表情は泣きそうな顔のままだが。
「九条先輩は洗濯物を干すの禁止です」
開口一番とんでもない事を言われた、それはあまりに理不尽すぎると思う。
これでは湊が何も出来なくなるので、認める訳にはいかない。
「却下だ、そもそも今日の洗濯物を干すのを許可したのは二ノ宮だろ?」
「あれは下着を洗濯していることを忘れていたからです、覚えていたら許可しません。あと九条先輩の勢いに押されました」
どうやら自分の下着のことを本気で忘れていたらしい。
湊の勢いについてはこちらも引けなかったので勘弁して欲しいが、譲るわけにはいかなかった。
「洗った下着だろ? 何もそんなに神経質にならなくても」
「……変態」
「おい」
頬を紅潮させて涙目で睨まれた。
洗った下着で興奮する趣味は湊には無い。
「洗ってあろうとなかろうと、下着を見るのは駄目です。デリカシーがありません」
ぷいとそっぽを向きながら咎めるように言われた。湊は気にしないのだが、どうやら納得いかないらしい。
確かにそう言われると配慮が足りなかったと思う、そもそも下着を見られるのが駄目なのだろう。
ここは湊が折れるべきだと判断した。
「すまん、今度から気を付ける」
「……いえ、私も言い過ぎました。すみません」
互いに謝り、溜息を吐いて心を落ち着かせる。
どうやら愛梨もいつもの調子に戻ったようだ。表情も普段の無表情に戻っている。
これでようやくちゃんとした話し合いができそうだ。
「その、いくら洗っているとはいえ下着を見られるのは恥ずかしいです」
頬をほんのり赤く染めてもじもじしている。普段の調子に戻ったとはいえ流石に恥ずかしいらしい。
「分かったよ、なら二ノ宮の下着があるときは俺は干さない。それでいいか?」
妥協案を出すと愛梨は顎に手を当てて考え込む。
「九条先輩のバイトが休みの時に、しかも私が下着を洗濯してない時。そんなタイミングがありますか?」
「……正直難しいと思う、けどそれくらいはやりたいんだ。このままじゃ二ノ宮の負担が大きすぎる」
それは言われるだろうと思っていた。しかし折れてしまえば愛梨に家事をほとんどやってもらう事になる。
湊が渋い顔をしていると、愛梨が心配するなというように、にっこりと笑う。
「別に負担だとは思ってませんが。今まで通り私がやっても構いませんよ?」
「……本当に大丈夫か?」
「大丈夫です、任せて下さい」
不安になって尋ねるものの、柔らかい微笑で答えられた。
この顔で言われると湊は何も言えなくなってしまう。
改めて頭を下げてお願いした。
「洗濯物、頼むよ。本当にありがとな」
「その言葉だけで十分ですよ」
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