第8話 愛梨の連絡先
(しまった、二ノ宮の連絡先を聞いてない)
バイトが終わり、愛梨に今から帰ると連絡しようとしたが連絡先を交換していない事に気付いた。
まあ連絡しなくても特に問題無いだろうと楽観的に考える。
夜飯を作るとは言っていたが、一緒に食べるとは言っていなかったので既に食べ終えているはずだ。愛梨がわざわざ湊を待つ理由が無い。
冷えていても美味いだろう彼女のご飯を想像しながら家に帰った。
「おかえりなさい」
扉を開けると、とんとんと軽い足音をさせながら、玄関に来た愛梨が湊を迎えた。
誰かにおかえりと言われたのは久しぶりだ。胸がじんわりと暖かくなりながら返事をする。
「ただいま」
「九条先輩がいつ帰って来るか分からなかったので、まだ夜ご飯は作っていませんよ。今から作るので先輩はお風呂に入って下さい。私はもう入ったので」
「……嘘だろ」
何の不満も持っていないような柔らかい微笑みをされた。
愛梨の言葉を聞いて血の気が引く。どうやら湊の帰りを待っていたらしい。
結構遅い時間になってしまったのに、何も連絡をしなかった湊を待つのは辛かったと思う。
申し訳なさで胸が一杯になりながら尋ねる。
「先に食べてて良かったのに。腹減ったんじゃないのか?」
「確かにお腹は空きましたが、そんなことしませんよ。夜ご飯を作ると言った以上、家主である九条先輩に冷たい夜ご飯を食べさせる訳にはいきません」
「家主とか気にしなくて良い、それに冷めてしまったなら温めなおせばいいだけだ」
家には電子レンジがあるのだし、別に冷えてても構わない。湊としては作ってもらえるだけで十分に有難いのだ。
それに、毎日ではないとはいえバイト終わりの時間に合わせてもらうのは気が引ける。
なので先に食べても良いと言ったのだが、愛梨は眉をつり上げて否定した。
「駄目です。一緒に住んでいるんですから一緒に食べましょう。私は九条先輩が帰って来るのを待ちます」
「いや、でも――」
「料理を作る私が待つと言ったら待つんです。譲りませんよ」
湊の言葉を遮ってふんわりと微笑まれた。
愛梨の顔は笑っているものの、絶対に譲るつもりはないらしい。
「……分かった」
結局強引に押し切られ承諾した。
まずは、なによりも謝罪が先だろう。
「まさか待ってるとは思わなかった、本当にすまん」
「気にしないで下さい、連絡先を聞かなかった私も悪いので。次からは連絡してくださいね」
「忘れたりしない、必ず連絡する」
互いにスマホの連絡先を交換する。今日のような事にならないためにも連絡を絶対に忘れてはならないと湊は決意する。
「一応言いますけど、誰かに教えないで下さいよ?」
「二ノ宮の許可も取ってないのに誰が教えるか。そもそも学校では俺達に接点が無いだろう、誰も知り合いとは思わないよ」
ほんのりと睨みながら愛梨に言われたので、湊は即座に否定した。
本人の許可なく教えるのは駄目だろう、それに湊の連絡先を知っているのは一真と百瀬くらいだ。
あの二人にしても彼女の許可が無ければ教えるつもりは無い。
湊の言葉に安心したのか、愛梨の表情が柔らかくなる。
「確かにそうですね。では先程言った通り、九条先輩はお風呂に入って下さい。私は今から夜ご飯を作りますので」
「ありがとう、それじゃあ入らせてもらうよ。風呂から上がったら俺も出来る限り手伝うから」
いくら作ってくれると言っても待っているだけは駄目だろう。
キッチンは狭いので二人で料理は無理だが、皿を出す等の他の事は湊でも出来る。
「ありがとうございます」
「それと少しの間だけ居間に行ってもらえると助かる」
「何故ですか? 夜ご飯を作るって言ってるじゃないですか」
きょとんとした顔で首を傾げられた。昨日愛梨の身に起こりそうだったのに本気で分からないらしい。
湊は軽く溜息を吐いて、少し呆れ気味に声を出す。
「キッチンから玄関が丸見えなんだが。二ノ宮は俺の着替えを見るつもりか?」
玄関から居間への通路にキッチンがあるので、玄関で着替えるとどうしても見られてしまう。実際昨日は湊が注意されている。
湊は別に上半身を見られて恥ずかしいと思わないが、下半身を見られたくはない。
「――っ! すみません、着替え終わったら呼んで下さい!」
リンゴのような真っ赤な顔をして愛梨は居間に逃げて行く。あんな表情をしたところを湊は初めて見た。
下半身を見られるような事にならなかったので正直ホッとしている。
しっかり向こうに行ったのを確認し、風呂に入る準備を済ませた。
「脱ぎ終わったぞ。風呂場に入ったからもう大丈夫だ」
「分かりました、ありがとうございます」
「服と下着が置いてあるけど、見るなよ?」
「見ませんよ! 何言ってるんですか!」
冗談っぽく笑いながら言ったら本気で怒られた。羞恥心で余裕が無くなっているのか、普段の平坦な声は見る影も無い。
たった二日しか一緒にいないが、随分といろんな感情を見せてくれるようになったと思う。
湊は嬉しくなって顔を綻ばせながら体を洗った。