第60話 もう一つの買い物
愛梨と喫茶店で休憩した後、最後の買い物ということで着物屋に来ている。
普段は用の無い場所であり、なぜそんな所に来たのかと尋ねてみたところ――
「浴衣が欲しいんです。持ってませんからね。それに湊さんが花火大会の時に買いに行くって言ってたでしょう?」
浴衣など普段使いするものではない。物欲の無い愛梨が欲しがるのは意外だったが、彼女の言う通り買いに行くと言ったのは湊だ。
だが、それは来年の花火大会の前でも良いのではないか。
「確かに言ったが、今か? 流行りの物とかもあるだろうし、来年でも良いんだぞ?」
「来年では遅いんですよ。……一緒に来た時点で隠すも何もありませんからね、まあいいでしょう。紫織さんに夏祭りに行こうと誘われまして、その為の浴衣ですね」
「夏祭りって言うと……ああ、多分あれだな」
湊の、というよりは一真達の家の近くでは、毎年盆過ぎの遅い時期に夏祭りが行われる。最近全く行っていなかったが、おそらくそのことだ。
花火大会の時は私服だったので今度は浴衣で行くつもりなのだろう。
そして、行くメンバーに湊も入っているはずだ。
「ちなみに俺もだよな?」
「何当たり前の事言ってるんですか、当然でしょう? ……湊さんが行きたくないと言うのであれば私も行きませんが」
「いや、行きたくない訳じゃ無いんだ。そうか……」
おそるおそる愛梨に尋ねると呆れ顔をされたが、そんな表情をされた事よりも傍に居れる事に安堵の溜息を吐く。
彼女が湊を一番信頼しているのは分かってるつもりだが、男避けにすら使われないとなると本当に頼られているのか不安になってしまう。
その感情が顔に出ていたのか、碧色の瞳が慈しみの色を帯びる。
「何をそんなに不安になっているんですか。紫織さんは例外としても、私が貴方以外の人とそういう場所に行く訳無いでしょう?」
「……すまん」
「暗い顔してないで、私の浴衣を選んでくださいよ」
「ああ。ありがとな」
ふんわりと微笑む愛梨に元気をもらったので感謝を伝えた。
そして、彼女の浴衣を選び始めようとしたところで、おかしな事になっているのに気が付いた。
「……なあ、なんで俺が愛梨の浴衣を選ぶ事になってるんだ?」
「湊さんは一度口に出した事を否定するんですね」
愛梨は露骨に顔を俯けて表情を見せないようにしているが、直前の表情はニヤニヤとした笑顔だった。
確実に誤魔化そうとしているのは分かるが、先程彼女に励まされたばかりだ。選んで欲しいというならこれをお礼にしたい。
「まあいいか、嫌いな色はあるか?」
「いいんですか?」
「一度口に出したからな、約束は守るよ。……誤魔化されておく」
自分で誘導しておきながら、湊が選び始めたことに驚いて目を見開く愛梨の頭を苦笑しながら撫でる。
満面の笑みになった愛梨と一緒に浴衣を選ぶ時間は本当に楽しかった。
周りに殆ど人が居らず、互いに外行きの態度を完全に忘れてしまうくらいに。
「どうでしょうか?」
選んだのは紫の布地に百合の花が彩られたものだ。愛梨の光を反射する銀髪や吸い込まれるような碧色の瞳と合わさって良く似合っている。
「似合ってる。綺麗だぞ」
「……ありがとうございます。ではこれにしますね」
頬を薔薇色に染めて恥じらっている愛梨を見れるのなら褒めた甲斐がある。
ただ、今になって気付いたが、浴衣というものは高級なイメージがある。今持っているお金で足りるかどうか不安になってきた。
「なあ愛梨、いくらなんだ?」
「そんな気まずそうにしなくても大丈夫ですよ。これくらいです」
愛梨が見せてくれたタグには想像より遙かに安い金額が表示されてある。
これなら湊の財布の中だけで十分足りそうだ。
「なんだ、意外と安いんだな。拍子抜けだ」
「というか、当たり前のように湊さんが買うんですね。安いとは言っても割と高い方なんですが」
苦笑気味に愛梨が言うが、数少ない彼女が欲しいと思うものなら湊が買いたい。
もちろん高すぎるものには手を出せないので要相談だが、無茶は言わないと信用している。
「それくらいなら大丈夫だ。流石に万単位の物だったらどうしようかと思ったけどな。でも、そんな安くて物持ちは大丈夫なのか?」
「安い代わりに一、二回とは言いませんが、何回か着ただけで駄目になるようですけどね。……いくら何でもそんな高い物なんて買おうとしませんよ」
「なるほどなぁ」
数回着ただけで駄目になってしまうのなら納得の安さだ。
とはいえ愛梨がもう一度浴衣を買うのであれば、今は無理でもいつか上等な物をプレゼントしたいと思う。
そう思考していると、彼女は美しい笑顔で首を傾げた。
「ということで、もしこの浴衣が駄目になったらまた買い物に付き合ってくださいね?」
「ああ、その時はもっと上等な物を買おう」
「……え?」
湊が正直に内心を伝えると、愛梨の顔が一瞬で真っ赤になった。
折角なので良いものを使って欲しいと思ったのだが、そんなにおかしな事だろうか。
「何だ、駄目か?」
「いえ、そういう訳では無いんですが。湊さん、その意味分かってますか?」
「は?」
高い浴衣をプレゼントする意味など良いものを使って欲しい以外に無い。
愛梨が何を言っているのか分からずに首を捻ると、彼女がニヤリと悪い顔になった。
「では湊さん、そんなに高い浴衣をこれからの為に買ってくれるんですね? 使えなくなるまでに湊さんと何回出かけるんでしょうね?」
「はあ!?」
心臓に悪い発言に素っ頓狂な声を上げてしまった。
おそらく愛梨は「高い浴衣をプレゼントするくらいこれから先も一緒に居たいのか?」と言っているのだろう。
もちろんこれから先も彼女とずっと一緒に居たいとは思っているが、高い物を買う事にそんな意志は全く無かった。
「お前、深読みしすぎだ。浴衣のプレゼントにそんな意味なんて無いだろう?」
「……酷いです、そんなに私と一緒に居たく無かったんですね」
「なあ、俺をからかって楽しんでるだろ」
意地悪な顔から急に顔を俯けて、露骨に沈んだ声を出すなどワザとらしすぎる。
一度目は許したが、二度目は許さないと愛梨を咎めると、先程の声は何だったのかというくらい楽しそうに彼女は破顔する。
「ふふ、すみません。湊さんの反応が可愛くてついからかっちゃいました」
「全く、悪ふざけも程々にしてくれよ」
「……ふざけている訳では無いんですけどね」
「え?」
「何でもありませんよ。さあ、次は湊さんの浴衣を選びましょうか」
ぼそりと呟いた言葉の真意が分からずに聞きなおしたのだが、何でもないという風に首を横に振って湊の浴衣を選び始めた。おそらく、もう尋ねても応えてくれないだろう。
当然のように湊の分も買う事になっているが、彼女が浴衣なのに一緒に行く湊が普段着なのは変なので、確かに買った方がいいだろう。そう思って湊も選びだした。
愛梨が選んだのは一般的な灰色の浴衣だ、洒落たものは似合わないので有難い。
選び終えてレジに向かうと店員が上機嫌にニコニコしている。アクセサリーショップでも似たような感じだったなと微妙に嫌な予感がした。
レジに表示された金額は浴衣のタグに付いているものより安くなっている。
「値段、違いませんか?」
「いいものを見せてもらったお礼ですよ。……というのは冗談で、単にセールをやっているだけです。表示しているでしょう?」
どうやらこちらの店員も湊達がカップルだと思っているようだ。「見せてもらった」という言い方から互いの浴衣を選んでいる光景を見られたのだろう。
勘違いで割引されるのは流石に駄目だろうと思ったが、見渡すと確かに湊達が選んでいたエリアより少し離れた位置にセール中の表示がある。
遠目ではあるものの、表示にすら気付かないほど選ぶのに熱中していたと自覚して恥ずかしくなった。
「デートに使うんでしょう? 楽しんでくださいね」
「はい。彼氏とのデート、楽しんできますね」
愛梨が腕と腕を絡ませて幸せそうに笑う。形の良い胸が肘に当たってぐにゃりと歪んだ。
いきなり恋人のような態度を取られた事に湊の思考が停止し、店員の言いなりになっている間に支払いが終わってしまった。
店を出ると愛梨はあっさりと腕を離し、今までの明るい表情から外行きの無表情へと切り替えた。
彼女の態度と表情の変わりようが凄まじく、苦笑いになりながら注意する。
「流石に嘘は駄目だろう」
「勘違いされただけじゃないですか、人も他に居なかったので別に良いでしょう? それとも、今から戻って訂正しますか?」
「そこまではしないけどさぁ……」
他人から見てカップルと思われる事そのものに悪い気はしない。むしろ愛梨と一緒にいるのが認められて嬉しいまである。
先程の店員に至っては、からかいたいくらいの恋人同士の絡みが見れたと言う事なのだろう。
どのみち今から訂正など出来ないので諦めることにした。
「ああいう事、簡単にするんじゃないぞ?」
「分かってますよ。どこでも、誰にでもなんてしません。……湊さんだけですからね?」
艶やかな微笑みを浮かべて湊をからかう愛梨に何も言えず、頬が熱を持つのを自覚してそっぽを向いた。