第55話 膝枕の感想
愛梨の膝の上で湊は少しだけ泣いてしまったものの、すぐに泣き止んだ。
とはいえ、恥ずかしくて愛梨に顔を見られないようお腹側に顔を埋めたままだ。
動くに動けないので、ジッとして愛梨に撫でられるままになっていると頭上から穏やかな声が掛かる。
「ところで湊さん。膝枕の感想を聞いてないのですが、どうでしょうか?」
「……言わないと駄目か?」
「はい、湊さんさえよろしければ何度でもしようと思いますので。嫌ですか?」
愛梨の甘い匂いは興奮はするが、同時にとても安らぐ。湊を撫でる手は慈しむように優しくて、もっとして欲しいと思ってしまう。
膝は柔らかく、お金を払ってでも彼女にしてもらいたいという人はいるだろう。
それを湊が何度もしてもらえるという優越感が心の中に生まれてしまった。
そんな醜い感情を抑えつつ、膝枕をしてくれた感謝の意味も込めて正直に話す。
「……嫌じゃない。抜け出せなくなりそうなくらい気持ち良い」
「湊さんなら抜け出さなくても良いですよ。いつもしっかりしている貴方がこうやって甘えてくれるというのは嬉しいですから。甘やかしたくなっちゃいます」
信頼しきっているような柔らかい声で甘やかしたいと言われれば、何も考えずに溺れてしまいそうになる。
だが、愛梨がいくら信頼しているからといって、家の事をほぼやっていない湊を肯定するのは駄目だ。
「俺、しっかりなんてしてないぞ。家の事をほぼやらずに、ゲームだけしかしてないんだが」
「嘘つき。朝は私の代わりにご飯を作ってくれて、バイトが無い時は買い物を代わってくれて、家では私に気遣ってくれる。これをしっかりしていないなんて言わせませんよ」
「そんなの――」
「当たり前だ、と言うんでしょう? そうやって自分を卑下するのはこの口ですか?」
愛梨が湊をお腹側から引き剥がし、湊の口に指を這わせる。
しなやかな指が唇に触れて胸がどくんと高鳴った。自分の頬が熱を持つのを感じる。
湊の頬が赤くなったのが愛梨にも分かってしまい、くすくすと笑われた。
「湊さん、顔真っ赤ですよ。可愛いです」
「……可愛いって言われるのは複雑だな」
可愛いと言われて喜ぶ男は一部の人だけだろう。
湊は可愛い顔などしていないし、そう言われた事も無い。
素直に喜べないので眉を寄せると、愛梨が微笑みながら謝ってくる。
言われるのが本当に嫌という訳では無いのが分かっているのだろう、単にからかっただけのようだ。
「ふふ、ごめんなさい。湊さんがあんなに真っ赤になっているのが嬉しくて、つい言っちゃいました」
「……からかうなよ」
「ですから、ごめんなさいって。……湊さん、頬っぺたすべすべですねぇ」
旗色が悪くなりそうだったのを感じたのか、湊の唇に指を這わせていた愛梨が湊の頬を撫でる。
髪と同じく特に手入れをしていないのだが愛梨は気に入ったようで、指でなぞったり、つついたりと実に楽しそうだ。
湊にしてみれば、自分の頬よりも愛梨の頬の方が余程触り心地が良い。
「俺の頬なんかより、愛梨の方が触り心地がいいだろ」
「おや、では触りますか? 湊さんならいいですよ」
「じゃあ遠慮なく」
からかうような笑みを向けられたので、先程の仕返しとばかりに愛梨の頬に触れる。
随分前に触れて、それ以降触っていなかったのだが、やはり触り心地が良い。
湊の頬などよりよほどすべすべで、しっかり手入れしているのが分かる。
愛梨がやったようにつついたりはしないが、指を軽く押し込むと柔らかい頬に沈んでいく。
ただ、膝枕されながらなので思いきり手を伸ばさないと触れられず、しかも彼女の胸に触れてしまいそうになるので避けるのが大変だ。
愛梨がこちらの顔を見る為に覗き込んでくれるから出来るのであって、普通は絶対に出来ないだろう。
長時間は出来ないが、やり返しなだけなのでこれくらいでちょうど良い。
まさか湊が触れると思っていなかったのか、愛梨が呆けたような声を出した。
「……ふぇ?」
「まさか愛梨は俺の頬を触っておいて、俺が触るのは駄目とは言わないよな? 触っていいって言ったんだし」
「それはそうなんですが、本当に触るとは思いませんでした」
「さっきの仕返しだ。触られるのが嫌なら止めるが」
「いえ、嫌じゃありませんよ。気持ち良いです」
愛梨はへにゃりと緩んだ顔をしていて気持ち良さそうだ。
湊が頬に触れた事で止まってしまった手も動きを再開し、頬ではなく髪を触り始めた。
湊の方はやはり腕を伸ばす体勢が辛いので、すぐに愛梨の頬を触るのを止める。
指が頬を離れた事に愛梨は一瞬だけ残念そうな表情をしたが、すぐに理由が分かったようで苦笑した。
「この体勢だと湊さんが腕を伸ばさないといけないので辛いですね」
「だな。悪い、長い時間出来ない」
「いいえ、今日は私が湊さんを甘やかす番ですから。いっその事横になりましょうか? そうすればどっちも触れられますよ?」
面白い案を思いついたと言いたげに目を細めた愛梨だが、流石にそれは遠慮したい。
そこまでしてしまえば湊は間違いなく手を出してしまうだろう。
今の甘い雰囲気だと愛梨も嫌がらないのではないか、と邪な考えが頭に浮かんだので即座に頭から追い出した。
「それは無しだ。これだけでも十分だよ」
「あら残念。互いに触りっこすればどちらも満足できると思ったんですけど」
「……勘弁してくれ」
これ以上は耐えられないと湊が腕で顔を覆うと、愛梨に笑われた。
おそらく湊の複雑な内心など見透かされているのだろう。それでも湊の頭を撫でるのを止めないあたり、本当に信頼されている。
「ふふ、ありがとうございます。私の事をちゃんと考えてくれて」
「当たり前だろうが」
「でも私の膝からは逃げないんですね」
「……それはそれ、これはこれだ」
膝枕は堪能したい、でもこれ以上は湊の心が持たない。
湊が誤魔化すと、穏やかな碧色の瞳が見下ろす。
「では、貴方が満足するまでゆっくり堪能してください」
「……ありがとう」
愛梨の瞳には信頼と、慈しみの感情が浮かんでいる。
その目があまりにも綺麗で、吸い込まれそうで、目が離せない。
独りではないという事を改めて感じる。愛梨が居てくれて良かったと心から思った。
そうして、見つめられながらゆっくりとした時間を過ごしているうちに、一つの疑問が頭に浮かんだ。
(一番大切な人ってどういう意味なんだろうか?)
元々花火大会の日に大切な人とは言われている。
だがあれは雨宮と比べての事であり、また今日膝枕された事も含めて愛梨から一番信用されているという自負もある。
であれば、単に一番信頼している人という意味合いが強いのだろう。
(そもそもそれを聞いてどうする。下手したら今の距離感が崩れてしまう)
愛梨の言葉の真意を確かめた結果、今の心地良い関係を崩すのは嫌だ。
夏休み前に比べてかなり近い距離には居るが、それによって息苦しくなることは無く、とても過ごしやすい。
それに、今回の件にしても湊を労ってくれただけなのだから。
であれば、詳しく確かめるべきでは無い。
そう結論付け、思考を放棄して彼女の優しい手と膝に身を委ねた。
暫くしてから愛梨の膝から頭を上げた。
正面から見た愛梨の表情はほんの少しだけ物足りないと言っているように感じたが、これ以上となると本当に抜け出せなくなりそうだ。
「もういいんですか?」
「ああ、本当にありがとな、癒されたよ。でも今日だけだ、明日からはこんな事しないようにな」
「はぁい。でも、湊さんを癒せるのならいつでもしますからね」
「……それ、全然今日だけじゃないだろうが」
「さあ、知りません」
愛梨は全く湊の忠告を聞いておらず、慈愛の笑みをしている。
多少は怒らなければいけないだろうと思ってこつんと本当に軽く愛梨の頭を小突くと、彼女は怒られたにも関わらず、嬉しそうにはにかんだ。




